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2009.10.07

ART LAB OVA 「横浜下町パラダイスまつり」に至るまで。(1)


話し手╱蔭山ヅルさん、スズキクリさん
聞き手╱AAF事務局

スズキ クリ/音楽家
東京巣鴨出身。横浜野毛在住。演奏や作曲活動のほか、ヴィジュアル・アートや演劇、ポエトリーリーディング、最近では手塚夏子、捩子ぴじん等、ダンスとのコラボレーションも多数。1996年よりART LAB OVAとしても活動している。
蔭山 ヅル╱アーティスト
横浜出身。美術大学を卒業後、欧州、アフリカ、東南アジアを放浪。1992年ころより自身の制作発表とアートプロジェクトを開始。96年よりART LAB OVAとして活動している。
ART LAB OVA(アートラボ・オーバ
アーティスト・ランの非営利団体として、13坪のアートセンターを拠点に、映画館やスナック、商店街、動物園、福祉施設、学校など、まちの狭間で「場」や「出来事」を通じて「関わり」を探るアートプロジェクトを展開している。
・ホームページ 
・横浜下町パラダイスまつり*よこはま若葉町多文化映画祭ブログ
・ヘンてこかわいいオーバのブログ 
・mixi『ART LABOVA』コミュ
・YouTube


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スズキクリさん




アウトサイダーアートとの出会い

---- 最初にART LAB OVAとして活動される前のことからお話を聞かせてください
スズキ:蔭山は武蔵美だったんだけど、ぼくは学生時代からバンド活動をやっていて、音系サークルが武蔵美にたくさんあって、そこのスタジオが使えるのでよく遊びに行ってたんですね。蔭山とはそこで知り合ったんです。
蔭山:大学卒業後、私はバックパッカーで、始めはヨーロッパの美術館なども回っていたんだけど飽きてしまって、それで、アフリカにも行き始めたりして、その中でアウトサイダーアートにも出会って、ヒッチハイクしてまでそうしたアートを探していたんです。
大学卒業して随分経って、スズキとも共通の友人にたまたま道でばったり会ったら、中学でしょうがいのある子の先生をやっていると言われたんですね。「卒業生のアトリエをやっているんだけどすごいおもしろいから遊びに来れば」と誘われて。
90年代の初め、その頃私がちょうど30歳で、30年生きてきてわざわざ海外まで行っていたのに、こんな身近なところに面白い人たちがいるじゃん、と驚いて。
自分ではそれまで自由に生きているつもりでも、大学やバイト先でもしょうがいのある人に会わないし、絵も見たことがなかった。たとえば、美術館とかギャラリーが「これがアートだ」というものしか見えていないし、この辺歩いている人たちの絵を見る機会ってないじゃないですか。
スズキ:ぼくは音楽をやっていて、バンドのスタイル自体に窮屈なものを感じていた時期でした。しょうがいのある人ということに対しては、ぼくは巣鴨で育ったんですが、元々子どものころに周りにいたんですね。うまく言えないけれどすごく好きな存在だったんです。なんかこう...
蔭山:うらやましい?
スズキ:そう。そんなに一緒にいたということもないんだけど、例えば、個別支援学級の子が授業に乱入してくるとか、そういうことにある意味わくわくしていたというか、共感を持っていた。
蔭山:スズキとはたまたまバイト先がいっしょで、アウトサイダーアートに興味をもっていたことも知っていたし、そんなこともあって私がそのアトリエに行き始めたときに声をかけたんです。結局私はアート・ボランティアとして、1年か2年やってたのかな。そうしたら突然その関連施設で働いてほしいと言われて、全然そのつもりはなかったので断ったんだけど、最終的に、まあやってきたことが認められたんだったら、ということで職員になったんです。

福祉施設ではたらく

蔭山:そこは当時としては考え方も新しくて面白いところもあったけれど、90年代初めくらいだとまだどうしても「しょうがい者が作ったものだから買って」みたいな感じがあったんです。私たちは、福祉のそういうところがすごいいやで、ただ「助けるためにやってあげる」というのだったら、絶対やりたくなかった。
ちょうどその頃、バブルが崩壊し始めていて、ベンツとかベネトンが社会的なコマーシャルを出し始めた頃で、社会的な活動ということに関心が持たれた時期でした。バブル絶頂期にクリエイターになった大学時代の友人などは使い捨てのような働き方をさせられて疲れきっていて、「自分たちは何をしてきたのか? 何をすべきなのか?」と自問自答をしていました。だから、こちらの話をするととても興味を持ってくれて、かといって彼らはしょうがい者に会ったことがないし、知り合う機会がない。そんなこともあって施設の職員になったときに、友人のデザイナーにデザインしてもらってTシャツを作ったり、オリジナルグッズを作ったんです。スズキもね。
スズキ:多重録音の作品、ちょっと変わった音楽なんだけど、そういうものを作って、カセットテープで売ったりとか。
蔭山:アニメーションも作ったよね。あの頃はフロッピーで売ったけど。
---- それは何年頃ですか?
蔭山:94~5年。だけど、元々が学校の先生が始めたところだったこともあって、ある程度まわりにわかりやすい、きれいなものが好まれたんです。だから、ちょっとえぐいところとか、変なところは評価されにくい。でも、私たちはそこがおもしろいと思っている。たとえば、スズキの多重録音の作品はめっちゃくちゃ面白いけど、全然評判がよくなかった(笑)。音楽だったら「みんなでなかよく合奏すればいいじゃない」ということなんですが、そのために働くのはとても抵抗がありました。それで、アート・ボランティアとしてやっていたことが評価されて施設の職員としてよばれたわけではないんだな、と気づいて、これはちょっと福祉の業界ではできないな、と感じたんです。
でも考えてみれば、本来アーティストは自分でバイトしたお金をつぎ込んだりして作品を発表している。それが給料がもらえてしまったから窮屈になっただけで、この活動自体を自分たちのアートプロジェクトにすればいいんだ、と考えて。

蔭山.jpg









蔭山ヅルさん



ART LAB OVAのはじまり

スズキ:自分たちで一からやれば、それが一番いいんだろうなと思って、とりあえず始めたんです。個々のつながりでやった方がいろんなことが明確になる。
---- エイブル・アート・ジャパンとか、そういう流れができる前のことですか?
蔭山:本当に偶然なんですが同時期なんですよ。エイブル・アート・ジャパンも94年に始まっている。
それから当時は1998年のNPO法もできる前ですから、アーティストが助成金を受けて、しかもグループでNPO活動するなどという考え方がまったくない時代です。でも、私たちは施設で働いたことで福祉関係の助成金のことを少しは知っていたので、これはなんとか行けるんじゃないかと思って始めたんだよね?
スズキ:だけど最初は、というか今もそうだけど(笑)、実際には資金的なことはかなり厳しい状況があってほとんど画材も持ち出しで無料で施設を回ったり。
蔭山:リュックに背負って持って行く。だけど子どもとしょうがいのある人の場合一番むずかしいのは、本人に直接情報を伝達するすべがないことなんです。私たちが施設を辞めたときには本当に疲れ切って1年間休んで、もう絶対、個人間の関係しか信じないと思って立ち上げたんですけれど、情報を伝えたくても福祉施設以外に連絡のしようがなかった。
結局50か所くらいの福祉施設に、「こちらから画材持って行きます」という案内は送ったけれど、まだエイブル・アートもほとんど知られていないころですし、連絡が来たのは50か所中2か所だけでした。
---- 一番最初の頃ですものね。いまはアートで表現するということを柱にしているところがたくさんできていますよね。
蔭山:でも、今でもアーティストが主体的にやっているというのはないですよ。画家の先生が講師として福祉施設に入るとか、福祉施設がアーティストを雇って、というのはあるけれど、アーティスト自体がやっているというのはほとんど聞かないです。

スタッフ3名となる

蔭山:オーバを立ち上げたころ、私たちは「だれでも」といいながらも、どうしてもしょうがいのある人にこだわっていたところがあって、「しょうがい者」と打ち出したいという気持ちと、だけど一方で「しょうがい者とは誰なのか」という疑問もあってその矛盾にずっと悩んでいました。
それから見たこともないような表現がおもしろいと思いながら、直接ではなくても、「これがもうちょっとこうだったらいいのに」と、なにかを示唆するような行為をしていたりとか、ふと気づくと、結局は額縁に入れて美術館に飾るようなことというか、ともすると彼らの制作や作品で自己実現を代替する方向にむかってしまったり。
96年にオーパを立ち上げて、そんなことに悩んでたときに、当時美大生だった、ひと回り若いスタッフが入ってきたんです。彼女は絵を勉強している身で、アウトサイダーっぽい絵を描いていたから、先生に言われたことがどんなに自分に影響するかとか、先生のアドバイスを聞いて描いた絵は結局最後に全然思い入れを持てなかったとか、最終的に平気で自分の作品を廃棄できることがとても悲しかったとか、そういう話をしてくれたんです。
オーパのスタッフになっても給料なんか出るわけがないのに、大学卒業してもずっとバイトしながら8年間。現在は結婚して子育て中ですが、いまでもニュースレターのデザインなどを手伝ってくれています。
だけど、その3人でやっていたことで、たとえば「しょうがい者」とか「アート」というキーワードがもっと広がって考えられたというのはあるよね?
スズキ:そうだね。なにかひとつのことに対しても、三人三様の考え方がある。それについて話し合うのはけっこう大変で、今でもそうなんだけど。
蔭山:彼女が入ってきたときは、これで食べて行けるようにしなきゃいけない、それで作業所にしよう、と3人で考えたこともあって、サンフランシスコのしょうがい者アートセンターに行ってみたりしたんだけど、アートセンターと言ってもしょうがい者と付く限りは結局は福祉施設なんですよ。そういうのを見てたら、やっぱりつまんないなあと。
---- 作業所ではない道を選ぶということですね
蔭山:彼女が来たことで私たちも責任を感じて、100万円単位の助成金も申請したんですね。そうするとただ忙しいだけで、その100万円のために、やりたくないこともやらなきゃいけなくなった。結局なにがやりたかったんだろう? というのがすごく出てきて。だから最初からシステム外でやることの意義に気づいていたのではなくて、やりながら、常に迷いながら、最後には「やっぱり隙間だよね」みたいな(笑)。

拠点をつくる

---- はじめにしょうがいを持った人たちと一緒に、というところからしだいに変わっていかれますね。拠点ができ、街に出て行くというか、そのあたりは今に至るまでどういう流れなんですか?
蔭山:最初、スズキが東京から越してくるというので、たまたま3Kの一軒屋を見つけて、スズキの住居内の6畳間を1部屋アトリエにしたんです。でも90年代はまだ新築信仰みたいなのがあって、関係者が訪ねて来ても、「ただの民家じゃん」って(笑)。昭和30年代のトタン張りの家なので、今だったら「住み開き」とかあるし、違うんでしょうが、その当時は、みなさんがっかりして帰っていかれる。
その後、98年、神奈川国体のときにしょうがい者のスポーツ部門に対して文化部門もあり、しょうがい者とアートという活動をしている団体がどこにもなかったので、うちが県の方と市の方と両方関わってやったりしていたんです。そのときに、描く機会から作れればということで、横浜市ボランティアセンター内にアトリエを開いて、その後もニーズがあったので、そのアトリエを継続しました。当初の管理職の人がすごく理解のある人だったんだけど、その後だんだんやりにくくなって。
それからそこでは1000円の利用料をもらって場を維持していたんだけれど、支援者はスペースが無料なのを知っているので、どうしてもそれを講師料として考えてしまう。でもわたしたちは、「見たこともない表現に出会いたい」「この人がどんな絵を描くのか見たい」がためにアトリエを運営しているので、なにも教えない。しょうがい者とその兄弟といったアトリエを利用する人と活動をするのは楽しいけれど、その人たちを連れてきて、お金を払ってくれる支援者とはどんなふうに付き合ったらいいのか悩んでいました。そんなときに、突然1か月以内にどうしても独自の場所を借りなければならなくなる事情が別にできて、2001年の正月に今の場所を開設したんです。

13坪のアートセンター

蔭山:始めてみたら、家賃が発生することでオーパの会員のなかでちょっと一体感が出た。運営を支援するために、支援金としてアトリエ料を払うということで、今までよりも500円高くなっても気持ちとしては共有できたというか。
常設の場になったことで、カフェやギャラリーとか、ほかのメニューも増やせた。ギャラリーといってもただの壁、ライブラリーはただの本棚、カフェとアトリエは同じテーブルで、上になにを置くかによって名前を変えているだけなんだけど(笑)。そうするともともとアトリエも絵なんか描かなくてもいいと思っていたわけで、その中で、お母さんもカフェを利用をしておしゃべりすることもできるようになった。公共の福祉施設からはなれたことで、利用する人がしょうがい者や子どもと限らなくなったこともあって、だれかが場を利用するその時間そのものがアートプロジェクトのひとつになったんです。
スズキ:例えば母親は子どもに「こういう絵を描いてほしい」と言ったりするんですね。だからそれまではお母さんは別のところにいてもらって、と考えていたんだけど、その場をシェアしてお母さんと話すと、お母さんもみんな面白いなあ、というのを発見したんです。あの場を作ったことですごく広がった。
蔭山:そこで起こっていることがアートだと思うと、今まで「口うるさい」と思っていたことも、こんな面白い発想でこういうことを言っていたのかとか、すごく興味をもって聞けるようになった。こっちが本気で面白いと思うと、向こうも乗ってきてくれてね。
スズキ:お母さん方が言っていることは変わらないんだけどね。「これ、なんで色つけないの?」とか言っているんだけど(笑)、それもその人の文化なんだなって思えてくる。
蔭山:それから、そのころにはエイブル・アートの活動がかなり知られてきていたんですが、当時考えていたのは「しょうがい者の絵を美術館に」とか言うけれど、ほとんどの人が美術館に行ったことがないんです。日常的に行っている人なんてもちろんいないし、しょうがい者は無料だけど、いざ行くと「こうしちゃいけない、ああしちゃいけない」と言われる。チャリティーコンサートですら「別部屋を用意します」とまったく別扱いされたりする。それじゃあ、美術館に一緒に行くことからまず始めよう、ということになった。拠点を設けたことで、拠点から出てみようというのがすごく出てきたんですね。

ovaへんかわ.jpgのサムネール画像
photoART LAB OVA
13坪のアートセンター





横浜トリエンナーレ2005

---- ART LAB OVAのWebサイトに次のようにありました。
「2005年からは、こどもの居場所づくり事業や、EUとの交流事業に参加。横浜トリエンナーレ2005では、自主的に会場内のバリアフリーマップを作成し、自閉症の兄と会社員の弟とともに展覧会を鑑賞する「金島兄弟ツアー」を開催。そのほかフランスのアートジャグラーと地元のこどもたちと共にパフォーマンスを披露したり、ポッドキャスティングラジオのレポーターとして参加アーティストにインタビューをするなど、まちを舞台にアートを通じて、ひと+もの+ことに関わっています」
この年はいろいろあったんですね。
蔭山:まずEUの交流事業でヨーロッパに視察に行って、その関連事業でフランスからアート・ジャグラーを招聘したんです。間に入ったNPOの人は、アーティストに気をつかって、ここでアーティストに休憩取らせてくださいとか、いろいろ言っていたのだけれど、そのジャグラーは、どこでもどんどんジャグリングを始めちゃうし、全然予定に入ってなかったことを1日中やっている(笑)。それがたまたま横浜トリエンナーレの会場内だと、みんなパフォーマンスだと思って安心して見ている。でもよく考えると、上半身裸の男が玉を頭に乗っけているだけという状況で、そういう光景がおもしろいなあ、と思いましたね。
一方で、そのときのトリエンナーレは隙間だらけで、とてもおもしろかったんだけど、バリアフリーということではめちゃくちゃ危険だったじゃないですか。
---- 埠頭から海に落ちそうとか。
蔭山:オーパの会員にも声かけたいけれど、たとえば子どもが海に落っこちたらジョークにならないし、2度とトリエンナーレが開けなくなったら困ると思って、それで岩井成昭さんに相談したんです。そうしたら岩井さんが芹沢高志さんや川俣正さん、いろんな人につないでくれて、私たちは、自閉症の団体の人や脳性まひの人に実際会場に来てもらって、ボランティアにアドバイスしてもらったり。最終的に岩井さんと一緒にバリアフリーマップを作ってそれをトリエンナーレ会場の受付で配布してもらうところまでやりました。
---- 岩井さんとは前から知り合いなんですか。
蔭山:岩井さんも同世代で、武蔵美の音系サークルの近くにいた人だったの。あとで話していたら、お互い、あ、そうだ、あのときのあの人か、みたいなことで、岩井さんが横浜で作品を発表するときにはお母さん方を紹介したり。
---- 「ミリオン・ママ」ですね。
蔭山:そうそう、これにうちの会員さんもだいぶ協力してくれましたよ。そういうふうに助け合っていたので、自然に私も岩井さんに相談できた。
---- 隙間は大事ですね。
蔭山:大事ですよ。その隙間にこそ、いざというときになにか言ったときに聞いてくれる人がいたんですね。私たちはただなんとなく、このおもしろいトリエンナーレ会場だからこそ、こどもがいたり、高齢者がいたり、しょうがいのある人がいたり、いろんな人がふつうにいる風景があったらいいなと思っていた。「観客がアート関係者だけ」では、このトリエンナーレは不完全だと。それで岩井さんやしょうがい者の人に声をかけてみたら、それぞれに全然目的は違うんだけど、動いてくれる人がいる。わたしたちの活動は、「ノーミッションのミッション」というか、目的とか、何かしたいというのはそれぞれが別でいい、その過程をシェアできたらいいな、と思っているんです。目的を一緒にしてしまうと突然窮屈になるというか、「ミッションに合ってないんじゃないか」みたいな話になる。
その後、その横浜トリエンナーレで、横浜のアート・ボランティアの姿が顕在化して、オーバにもつながりができた。そのボランティアたちが、ZAIM サポーターズ・スクールとして、市内の文化的なプロジェクトの話を聞く勉強会を開催していて、その中にジャック&ベティの前身の黄金町プロジェクトも来ていた。だから、「横浜下町パラダイスまつり」の会場になるジャック&ベティの運営者とは、ジャック&ベティになる以前からの知り合いなんです。















photo:福田依子

Le Pied sur la Tete

http://www.lepiedsurlatete.tk/




「本人アンケート」展

---- それでは2005年の横トリ以降、関係者のネットワークができ、それからしょうがいのある人たちとのアートを主軸におきながら、別のこともはじめたということなんですか?
スズキ:意識としては主軸というようには考えてないですね。
蔭山:アウトサイダーアートということばは、全然違う文脈持っているから、それを使ってこなかったんだけど、もしも、アウトサイダーアートということばが使えたら、しょうがい者って言わなかったかもしれない。
スズキ:そうだね。
蔭山:オーパは、「卵」という意味もあるんだけど、「outsiders' various arts=アウトサイダーたちの様々な表現」ということでもあるのね。ここでいうアウトサイダーは昔から、「芸術業界外の」という意味だったし、とくに今はしょうがい者にこだわっているということは全然ありません。
神奈川国体関連で、本格的にしょうがい者とアート関連の活動をしていた98年ころ、今もそうですが、当時はもっと、オーパなんて理解されてないわけですよ。だって、アトリエといっても絵画教室でもない。場と画材があるだけで、なにも教えてもくれない。理解できないけれど、他に行くところがないから母親たちは子どもを連れてくる。でも、本当は「オーパだから行きたい」という人に来てほしい、情報がないなら情報を作ろうというので、「かながわ障害者アートネットワーク」というのを組織して、神奈川県内のしょうがい者の芸術活動の小冊子をつくったんですね。それをつくるにあたって、まずはしょうがい者の芸術活動の状況を知ろうということでアンケート調査をしたんです。はじめに芸術活動をしている団体に状況を聞く。いくらでやっているとか、どんなふうに経営しているか、考え方とか。その次に、しょうがい者がはじめてアートに関わるきっかけになる学校の先生たちに、そして、最後に本人に聞くと。で、本人に聞くって、本人にどう聞くんだ? 本人はだれなんだ? ということになって、じゃあ、それぞれのメンバーが「本人」だと思う人に、その人に聞きたいと思った方法で、聞きたいことを聞こう、ということになったんです。そうしたらほとんどがインスタレーションになったんだよね。
スズキ:そうだね。でもおもしろかったね。
蔭山:そんなことをやっているうちに、福祉の人や、アートが全然分からないと言っていた人も、アイデアを出すし、そういうことでシェアできたことがある。それがすごくおもしろくてね。
しょうがい者とかしょうがい者じゃないとか、アーティストとかアーティストじゃないとか、だんだんどうでもよくなってきて、でも一方でそうした活動をすればするほど、「ああ、オーバ、しょうがい者だね」とか、「あそこはアート団体じゃないよね」とか言われてね。そんなジレンマがあったときに、EUの交流事業があり、2005年のトリエンナーレがあり、私自身もポッドキャスティングのインタビュアーをやったりとか、自分がアーティストなのかボランティアなのか、アーティストにインタビューに行っているからなんなのか、どんどん立場がこう...
---- 溶解していく。
蔭山:そう。その感じを、2005年にとても感じたんです。
---- 転機になったんですね。

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2009.10.07

ART LAB OVA 「横浜下町パラダイスまつり」に至るまで。(2)



砂山典子「むせかえる世界」

蔭山:2005年にアート・ジャグラーをフランスから呼んだことで、横浜の日仏学院の学院長、フランス人で、フィリップ・ラルーというアーティストなんですが、彼と友達になったんです。今回「横浜下町パラダイスまつり」の参加作家のひとりにも入っているけれど、彼はもともとダムタイプの砂山典子と知り合いで彼女の赤いドレスの作品「むせかえる世界」のヨーロッパ巡回をサポートした人でした。それで2006年の正月に、その作品が広島の現代美術館から移動しなければならないと聞いて、20メートル、1トンあるものだけれど、これをどうしようと。
スズキ:その話を聞いて、捨てたりされるんだったらぜひ見たいよね、という話になって、それでなんとか横浜に持って来れないか、とプロジェクトを考えついたんです。
蔭山:ちょうど、横浜トリエンナーレ2005の直後で、現代美術で市民ボランティアが盛り上がっていたから、横浜出身作家の作品を市民の手で移送しよう、というプロジェクトは、トリエンナーレ後の横浜にとってもうってつけのプロジェクトになるんじゃないかと考えました。それですぐに「むせかえる世界基金」を作って、その事務局を私たちがアートプロジェクトとしてはじめる提案をしました。でも実際に団体を立ち上げたものの、展示会場がなかなか見つからなくて。ところが、突然、横浜美術館で1か月後に展覧会ができるとなった。もちろん横浜美術館に空いている展示室があるわけもなくて、美術館開館以来18年、一度も作品展示をしたことがなかった「グランド・ギャラリー」と呼ばれるホワイエに展示することになったんです。
ただその巨大なドレスには砂山典子が座って完成するものだから、それまではどこでも1日しか展示してないんです。1日で9時間が限度なんですよ。それを9日間展示しなければならないから、ボランティアを募集して、セクシャリティとか、いろんなことを含んだ作品だとアナウンスしたら、全国から17人集まりました。それがもう、いろんな人がいて(笑)。
スズキ:すごかった、すごかった。
蔭山:移送のための基金も展示終了時には、ちょうど目標額に達していました。あのときに、砂山典子というアーティストに出会い、美術館も巻き込み、いろんな人たちといっしょにプロジェクトをやったことで、私たちはいろんなやり方で変幻自在にできるという、まあ、自信みたいなものかなあ、手応えがありました。

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ⓒNorico Sunayama
むせかえる世界基金プロジェクト|2006|横浜美術館



「近江八幡お茶の間ランド

蔭山:去年、近江八幡のボーダレス・アートミュージアムNO-MAで展覧会(『「近江八幡お茶の間ランド」にちょっと寄ってくれはらへん? 〜ふつうの町のキュートな日常〜』展を企画したんですけれど、あれも大きかったですね。
オーバは、他人の、しかもアーティストではない人たちの作品の展示をする機会が多かったこともあって、いわゆるただ作品を設置するだけの「展覧会」という形式で企画することに興味がもてないんです。だけど、ここでは展覧会なんだけど流動的なかなり実験的なおもしろいことができた。
このとき実感したのは、アーティストやしょうがい者やこどもでなくても、どんな町にも、おもしろい人たちってたくさんいるんですよね。雑誌なんかでは絶対みかけないような、はみ出しているようなレイアウト感とか、趣味が良いんだか悪いんだかよくわからない、そういう、それぞれの家でひっそりと眠っているものを見てみたかった。
---- どういう経緯だったんですか?
スズキ:NO‐MAがディレクターの公募をしてたんです。それに応募して通ったという形なんですけど、われわれがやるといっても最終形が決まっていたわけではないので、採用した側も不安だったと思う。
蔭山:元々これを展示するということだったら、企画書も書きやすい。でも私たちがやることは、ほとんどそういうのがないから、NO-MAみたいな大規模なものをできのたのはかなりラッキーだった。でも、あの年以来、ディレクターの公募なくなった(笑)。

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photo:高嶋清俊 TakashimaKiyotoshi
「近江八幡お茶の間ランド」にちょっと寄ってくれはらへん?-ふつうの町のキュートな日常-展」|2008|ボーダレス・アートミュージアムNO-MA


文科省の事業から

蔭山:それから昨年度までの2年間は、文部科学省の「学びあい、支えあい、地域活性化事業」を受託をして活動していました。その事業は小学校の学区ぐらいの大きさの街の中で、地域の人たちが地域の問題に対してなにかをするということで、一地域が上限50万くらいまでというものでした。それが、私たちの活動にぴったりの事業だった。
例えば、ホームレス・アーティストのいちむらみさこと開催したスナック。飲食店で、野毛に集う会社員たちとホームレスが対話をする場を作るといったものでね。それから、パフォーマーの手塚夏子と開催した「赤ちゃん観察会議」とか。
---- それは応募されたんですか?
蔭山:その前に「子どもの居場所作り」という、やはり文科省の事業に参加することになって2年間やっていました。それでその事業の中間支援をしてくれていたNPOから、次は「学びあい、支えあい」があるからやってはどうか、というお話があって。それを機に、一気に「この地区ではこういうことを考える」という形で7~8か所提案して活動してきました。ジャック&ベティでは「この地域で外国人問題を考える」ということで、「フィリピン・プロジェクト」とか「タイ・プロジェクト」をやっていたんです。
---- それが今回AAF参加にしたプロジェクトに繋がっていくんですね。
蔭山:そうです。2年間、フィリピンとかタイを個別に見ていくと、この地域が分断されていることがわかってきた。たから3年度目には、もう少し大きくとらえていきたいと考えたんです。でもこの「学びあい、支えあい」の事業が3年間のプロジェクトだったのに突然2年間に短縮されて、気づいたらお金はなくて、私たちの企画だけが取り残されていた(笑)。
---- それではほかに助成はないんですか?
蔭山:AAFの他は全然ないです。

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photo:農宗靖也 NosoYasunari
ヨコハマ の名画座はタイにある〜ヨコハマ・タイ・ストリートプロジェクト|2008|シネマ・ジャック&ベティ


寿町の学童クラブ

---- 帽子おじさんとのプロジェクトはどんなきっかけですか?
蔭山:帽子おじさんはアウトサイダーアーティストとしてスイスで有名になっていますけど、元々街で見かけていて、興味はあったんだけど知り合うきっかけがなかったんですね。それで、寿町に住んでいるということだったから、寿町にご飯を食べに行くプロジェクトを始めたんです。でもご飯食べに行くくらいじゃなかなか出会わない(笑)。そうしたら、NO-MAの企画が決まったときに、畸人研究学会というところからいきなりメールがあって、帽子おじさんの住む横浜からもこういう人たちが出てきたということで、ぜひあなたがたにおじさんを紹介したいと。
---- 畸人研究学会に、オーパが認められたということですね?(笑)
蔭山:はじめは「学びあい、支えあい事業」を利用して、寿町で、帽子おじさんによる帽子づくりワークショップをしたかったんです。だから、まずは帽子おじさんと知り合いになる前に、寿町の学童クラブ「ことぶき学童保育」を訪ねて、ここの子どもたち対象に、帽子おじさんのワークショップをさせてください、とお願いしました。その学童クラブには、どうみても中学生なのに金髪で、鼻にピアスをしていたり、中には乳児を抱いている少女がいたりする。もちろん小さな子たちもたくさんいるんだけど、中学生たちも、一見不良なのに、学童に来ている。その学童クラブの責任者は、また、コロボックルみたいな風貌で(笑)。
---- その人が子どもたちが集まりやすい場所、居やすい場所を作ってあげているということですか?
蔭山:うわさに聞くとすごいんですよ。どうやら元教員らしくて、近くの団地に行って深夜まで勉強を見てあげたり。こどもたちにあだ名で呼び捨てにされていて、全然自分のことを話さない。1年、2年たって、だんだん周りからすごい人らしいという情報が入ってきたんですね。運営は厳しいようですが、場所自体は市の外郭団体所有の施設なので、なんとか維持されている。柱には80年代からの子どもたちの背比べの跡とか、たくさんの写真が部屋に飾られていたりして、その蓄積がいい雰囲気なんですよ。
でも、その人が言うには、「20年前、寿にいる男の人は飲んだくれても翌日は仕事に行く強い男だったので、子どもたちもおじさんたちに一目おいていたし、尊敬していた。だから、昔、中学生が野宿者を襲うような殺人事件があったけれど、寿の子だけはそんなことは絶対しない、と断言できた。でも今、寿から子どもはいなくなり、ここに来ている子もほとんどがほかの町から来ている子だし、寿の大人たちは高齢化してしまった」と。そして「子どもたちと老人の出会いに、どんなリスクがあるかわからない」と言うんですよね。ただ単に、「地域の老人と子どもたちが、いっしょに帽子を作る」というのん気な企画に、まさか、そんな現実があるなんて思いもしなかったからショックだった。
スズキ:そういう人に言われるとね。だからそれはあきらめて。
蔭山:ただ、「いつでも遊びに来て」と言ってくれるので、寿町に行くと何をするわけじゃないんだけど、勝手に人を連れて行ったりして、そこの雰囲気だけ楽しませてもらっています。

帽子おじさんと街を歩く

蔭山:今回、横浜下町パラダイスまつりのチラシを作成するにあたって、帽子おじさんに「職業はなんてしますか」と聞いたら、「自称アーティストにしといて」と言うんです。いまでこそ、スイスで展覧会が開催されてしまっていますが、元々はパフォーマーという意識なんですね。私たちが帽子を作るワークショップをしたいと言ったら、「こんなのはただ電気の傘に人形をおけばいいだけだから誰でも作れる。だから教えるものは何もない」って。ただ、「それをかぶって歩くことは誰でもできることじゃないから、それはいっしょにやってもいい」と言われて(笑)。
スズキ:おじさんは、もともとカップ麺の空き容器を頭に乗せたのが始まりだったらしいんですね。それがきっかけで人を喜ばせることに目覚めたようなこと言っていたものだから、うちらは一応弟子ということで、まずそこから始めよう(笑)。
蔭山:1回目、10人くらい集まって、全員カップ麺の容器をかぶって、おじさんだけこんなりっぱなのをかぶってね。「じゃあ元町から行こう」「えっ元町ですか?」みたいな。そうしたら元町に入ったところに牛どん屋さんがあるんですが、おじさんが「俺、ちょっと食ってくる」と言って、いなくなってしまった。カップ麺かぶった10人だけが取り残されてしまってね。ただこの企画をはじめるにあたって、おじさんの影に隠れてパレードしたとしたら、それは話が違うんじゃないか、私たちもなにか背負わなきゃいけない、ということを話し合っていたから、フリータイムということでそれぞれが歩き出して(笑)。だけど元町がまた冷たい街で、徹底して無視される。
中華街だと観光客が多いというのもあるんだけど、みんなバーっと寄ってくるし、様子が180度違う。でも一方で、寿町から近いし、同じ住人の人もいて、「お前らそんなことしたら地獄に落ちるぞ」と怒鳴られたことがありました。どうやら寿町のなかでもおじさんのことをよく思わない人がいて、わざわざ寿町の人間が、この上さらに恥をさらすような行為をするのはなにごとだ、という反応だったようです。それから1回は原宿にも行きました。
スズキ:しかも電車のなかから帽子を被っていく。座席に座っていると「携帯でとっていいですか?」と誰かが聞いてきて、それが合図みたいに周りの人もみんな一斉に撮りはじめる。隣り合わせた若い子とおばさんが写真を見せ合ったりして、すごいいい雰囲気になるんですよ。
---- その日のことがブログで掲載されたりしたんでしょうね。
スズキ:異質なものが入ってくることで、そこにいる人たちの間に一体感がでる。なるほどって感じでしたね。

帽子おじさん.JPG













photo:ART LAB OVA
帽子おじさんと歩く会|2008〜



見えない境界線

---- 原宿ではどうでしたか?
蔭山:私、この歳になって初めてストリートファッションのモデルということで写真に撮られましたよ。そのときはおじさんの帽子をかぶってたんですけど。
スズキ:あの辺は写真を撮る外国人観光客も多いので、そういう人はすぐ声かけてきたね。
---- 表参道ヒルズなどは入れないんだろうな。
蔭山:元同潤会アパートのところでしょ? なんだか街の中に見えない境界線があるんですよ。多分、なにか過去にあったんだと思うんですが、おじさんはいろいろなことにものすごく警戒している。ここから敷地だからと言って境界線のぎりぎりのところに立って絶対に敷地には入らない。あの辺はすごいと思った。
それまではおじさんはただおもしろい被写体というだけの存在だったのかもしれないんだけど、一緒に歩いてみたら、いろいろな境界線をひしひしと感じるんです。たとえば代々木公園の中で、ヤンキー系の人のそばを通るときは、殴られまいとしてものすごく早足になる。
人とちがう、目立つというだけで、暴力をふるわれて怪我したこともあるらしい。おじさんはそんなことまでしてあのスタイルでわざわざ街にでて、老後を生きている。しかも、ウィークデイにはやらない、週末だけやっているんですね。彼は、「人のためにやっている、人を喜ばせたい」という。だけど一方で「それはただのバカとも思われたくないための言い訳なんだ」とも言うんです。
ほかにも横浜スタジアムの前で、ずーっと歌を歌っているおじさんがいます。その人も寿地区周辺の人ですが、かつては港湾労働者で、リタイアしたあとに「人のためになることをしたい」と言って、歌っている。伊勢佐木町でもよく歌っているんだけど、伊勢佐木町で仕事したときに、あるNPOの関係者が「あれが迷惑だ」と言う。音楽のプロジェクトを企画するときには、「あいつを追い出して、有名な全盲のクラシックの歌手を連れてくる」と言ってね。私たちはもう...
スズキ:ここにいるじゃん、いっぱいって。
蔭山:そう、ここにいるのに。
スズキ:何でわざわざ呼んでくるのか、ほんとに分からないんだよな。
蔭山:そのおじさんの話を聞くと、花嫁さんみたいな人が通ると花嫁の歌を歌ってあげるし、熊本から来たって聞くと熊本の歌を歌ってあげるとか、見ていないようでいてよくまわりを見ている。自分では世の中に奉仕していると思っているんですね。みんなは迷惑だと思っていたけれど(笑)。
帽子おじさんも一時期、シンプルな電気傘を見つけて、それをとても気に入って、この傘には絶対人形を置かないぞって、それこそ禁酒禁煙じゃないけど心にすごく強く誓ったんです。見た目はどうみても電気の傘なんですけど(笑)。なぜかというと、「これだったらちょっと民族的な帽子に見えるから百貨店にも入れるだろう」と言うんです。
---- それまではきっとデパートには入れなかったんですね。
蔭山:止められたんでしょうね。もし、若いきれいな人だったら、そんな帽子をかぶっても止めないかもしれない。
たとえば野宿者の話を聞くと、路上の人は命がかかっているから、雨が降ったり寒かったりすると、深夜のマックの100円コーヒーで雨宿りができるかどうかというのがとても重要なんですね。特に女性は現金収入がないし、比較的暖かな場所は全部男性にとられている。だけど何時間かすると、そうした女性だけに店員が声をかけてきて追い出そうとする。ほかにたむろしている不良や若い子がいても何も言わないのに、なんの迷惑もかけてない、一番弱い、貧しいおばあさんには「もう帰ってくれ」と言う。

オーバはなにをしているところなのか

蔭山:帽子おじさんは極端な例かもしれないけれど、いわゆる一般的な社会からズレたところから、いろんなことが見えてくる。そこを変えたいというわけではないけれど、そこに触れてみたい、少しは知ってみたい、おじさんをただ写真に撮っているだけでは見えないことを少しだけでもシェアしたい。
今回の若葉町のプロジェクトも、町には宣伝してほしくない部分がある。表沙汰にしないほうがいいお店とかね。その辺がまだ全然見えなくて無邪気に来ているからはじめられたんだろうけれど、だんだんにわかってくることがあるんですね。
---- 変えたいとは思わないというのは、どういうことなんでしょう。いわゆる社会的な運動とはちがうわけですね。
スズキ:運動には目的があるじゃないですか。
蔭山:ここがよくて、ここが悪いとか、なにも断言できない。これが悪いと思えなければ、これがいいとも思えない。もちろんおじさんが百貨店のトイレくらい使えたら良いなと思うけど、それ自体が運動にはなりえない。
スズキ:目的意識を持つことで失うものもある。そこにはすごく大事なものがあると思っているんです。もちろん、こういう社会であったらいいな、という意識はあるけれど。
蔭山:砂山典子のときも、ある程度目的があってやったことで、あれはひとつの運動だとも言える。でもアートプロジェクトであるということの重要性はそこにはないですよね。砂山典子の作品で使えたのだから、美術館のギャラリーホールを毎年市民のために開放しろ、ということになると全然変わってきてしまう。そうではなくて、その作品があって、どこかに動かしたい、展示したいということから始まっているから、運動みたいな形にはならない。
スズキ:砂山典子の場合も、展示することが決まってから、結果としていろいろなところに派生していくことがあった。そこに常に隙間をあけておくことがすごく重要ではないかなと思っているんです。全然ちがうところに行ってしまうかもしれないけれど、それでいいんだというくらいの感覚をもっていないと、目的に縛られてしまう。それは怖い。
---- オーバとはどんなところか、と言ったらむずかしいですね。わかりやすい説明を求められるということがあると思うんですけれど。
スズキ:それはすごいあるよね。
蔭山:それが活動のほとんど80%(笑)。
スズキ:どう説明したらいいのか、何かをやっていくことでどうやって示せるのかということを、常に考えているのかもしれない。それがひとつのモチベーションになっている気がします。
蔭山:毎回、オーパの説明をくださいと言われるたびにオーパの説明を一から考えてる。
スズキ:それはあるよね。なんかいつもぴったりこない。
蔭山:常に変化してしまう。自分たちでさえ分からない、分かりにくいことをしているわけなのに、それを分かりやすく説明しようすると、そのとたんに別物になる。だけどやろうとしていることを何かしら説明したい。宝箱みたいなものがあって、こんなのあるんだけど、と言うように、こんなことやろうと思っているんだけどって説明したいけれど、なかなか伝わらない。だからまた新しい活動をする。そして説明が必要になる。そのためにまた活動し、また説明する繰り返し。

これから

----長い時間ありがとうございました。最後にお二人にとってのアートとはどういうものか、そしてこれからのこと、展望について聞かせていただけますか。
蔭山:ちがう視点で物事を見直すことで、今すでにある物に新しい価値を発見できる可能性がある、それがアートですかね。展望は特にありません。先ほど言ったように目的に向かって何かをつくるというよりも、そのときにピン!とか、ムラムラとしたことをやってみたいだけなんですね。
スズキ:アートは、それが存在することによって生じる新たな関係の発見であったり、関係のダイナミズムの拡張を促す作用、一方向的な目的意識では見えてこない関係の多様性、可能性への気付きの機会、ということ。わからないこととか、驚き、問題を、新たに関係を組み変えることで位置付けようとする動きそのもの、ということでもある。人や物や出来事の間にある、隙間に在るもの、むしろ隙間そのものだとも思っています。
これから先も言葉や目的意識が追い付けない状態で、その時の必然性やモティベーションに反応した活動ができればと思います。
(2009.07.31 横浜市中区若葉町にて)


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2009.07.09

平嶺林太郎さんに聞く「甑島で、つくる。」

話し手╱平嶺林太郎さん

1983年鹿児島県薩摩郡里村(現・薩摩川内市)に生まれる。東京造形大学大学院修了。2004年より続く「『甑島で、つくる。』 KOSHIKI ART EXHIBITION」を主催するKOSHIKI ART PROJECT代表。

2008年、「Mix Up!!」「全員展!!!!!!!!」「食と現代美術 part4」に参加。20094月には「101 TOKYO Contemporary Art Fair 2009」に参加。同年、「『甑島で、つくる。』 KOSIKI ART EXHIBITION2009」がアサヒ・アート・フェスティバル2009に参加。同年自治体総合フェア2009「第1回活力協働まちづくり推進団体表彰」にて「『甑島で、つくる。』 KOSHIKI ART EXHIBITION」がグランプリ受賞。


聞き手╱AAF事務局


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島での暮らし


----平嶺さんは、甑島出身ですね。島ではどんな暮らしをされていましたか。

平嶺:中学までは島で育ちました。甑島には高校がないので、甑では中学を卒業すると、「島立ち」と言って、親元を離れて本土に渡って寮や下宿に入って生活しなければいけないんです。ですからそれまでの、特に小学校の頃の島の営みのようなものが、僕の中ではとても心地いいものでした。

例えば、夏休みはちょうど亀の産卵期なのですが、甑島の海岸線は砂ではなくて玉石なので、産卵で陸に上がった亀が死んでしまうことも多いんです。 それを救助しようということで、朝5時に起きて何時間も海岸線を歩いたり(笑)。それから小学4年生の頃、 たまたま鶏の鶏冠(とさか)がたくさんのっている本をみて、そこに薔薇冠(ばらかんむり)という鶏冠があったんです。 鶏冠が4連くらいになっていて、神々しいくらいに美しくて感動してしまったんですね。そこでチャボや中国の烏骨鶏をかけあわせて形のいい鶏冠(とさか)をつくるということを夢中でやっていました。そしてその鶏冠をもった鶏が中学2年のときにできて、一日中、鶏の絵を描いたり、写真をとったりしていました。自分ではそれがふつうだったんですけれど、回りからみると特殊なことをやっていたように見られていたかもしれません(笑)。

考えてみれば常に生きものがそばにいる暮らしで、後はおじいちゃんの畑の手伝いをしたりしていました。


進路を決める


----絵を描かれることはその頃からお好きだったんですね。いつ頃から美術の世界に行こうと考えられたんですか。

平嶺 もともとなにかを作ったり絵を描いたりすることが好きだったのですが、 小学5年生の時に、自転車に乗っていて絵画教室で油絵を描いている様子を偶然見かけました。分厚い紙にどっさり色をのせられるあの絵の具はいったいなんなんだ! と驚いて、油絵の具を買ってくれるように父親に頼みました。それから夢中になって油絵をはじめたんです。

父は建設業をやっていまして、本来は長男のぼくが跡を継がなければならないんですが、父親が苦労して整備した道や手入れした山が、台風や大波であっけなくこわれるのを見てすごくショックをうけたこともあったりして、子ども心に家業を継がずに自分でなにかやりたいな、とぼんやり考えていました。それで中学2年のときに「美術の道にすすみます」ということで父親に話しました。

ちょうどその頃、先ほどお話しした薔薇冠という鶏冠ができて、これを油絵で描いていたんです。たまたまうまく描けた1枚があって、父親は自分は芸術はわからないから、その絵を知り合いの住職に見てもらって「この子は芸術の道に進ませてあげなさい」という話になったら許そう、ということだったんです。それで、そのお寺さんに持っていったら、住職がいいといってくれたんですね。その鶏の絵はまだそのお寺にあります(笑)。 


プロジェクト開催宣言!


----「甑島でアートプロジェクトを」と構想されたのはいつ頃ですか。

平嶺:先ほどお話ししたように、島での暮らしが僕にとってはとても気持ちがよくて、コミュニティということでも、たとえば何軒かが共同でお茶を栽培していて、茶摘みの頃は誰かの家の部屋中に茶の葉をばらまいて、みんなで選別しながら話をしたりとか、そういう暮らしがありました。小学校のころは、「この島で暮らしていけば楽しいことがいっぱい待っている!」と漠然と思っていたんですけれど、中学1年、 967年の頃から、島のJAがつぶれたり、田んぼがなくなっていったり、徐々にいろんなところで「あれ?」という感じに変わっていきました。島に流れる緩やかな時間のようなものが急速に変化したというか、島の人たちも一生懸命乗り遅れまいと都会と同じように資本主義のシステムに載っかっていくようで、島の時間や文化が消えていくように感じていました。

大学に入って夏休みに島に帰ると、畑もますます荒れているし、神社のしめ縄が切れて垂れ下がっていたり、空き家が増えていたり、いろいろなことが忘れ去られていく状況をみて、自分がイメージしていた甑島をとりもどすために、なにかできないかと思ってモヤモヤしていたんです。

そんな頃、甑島でも2003年頃から市町村の合併問題がおきて、母校である小学校や中学校が統合されるといった話を島の議員さんから聞いたりしていました。そのとき思ったのは、東京での廃校を使った展覧会や、越後妻有アートトリエンナーレを見に行ったときの感触があったので、自分も美大に通っていてなにかできるんじゃないか、ビッグなアーティストは呼べないけれど、ぼくたちの世代のやり方でなにかできるんじゃないかと考え始めました。当時19歳で、お会いしたことはなかったんですが、東京造形大の先輩で「スタジオ解放区」の林僚児さんの活動も聞いていたので、林さんの知り合いの宍戸遊美さんにいろいろアドバイスをもらったりしていました。

そして2003年の正月に、島の成人式で壇上に立って「こういうプロジェクトをやる」と言ったんです。島の人たちの反応は「なんじゃそら」みたいな(笑)。聞かされた人にとっては、アート・プロジェクトということ自体がどういうものなのかわからないですし、つまらない挨拶だったと思うんですけれど。


これまでのKOSHIKI ART PROJECT


----その後の展開について教えてください。

平嶺:最初は家族からの反対を受けたりしたのですが、大学3年の夏、 1回目の展覧会を2004年にやって、 それから2005678年と続けてきました。これは1回目のときから考えていたことですが、3年目の2006年は、ワークショップや作家の制作活動は行ったのですが展覧会はやりませんでした。マンネリ化するのもいやだったし、展覧会をしなかったら島はどういう反応なんだろう、ぼくたちは本当に必要とされているのか、ということを知りたいと思っていました。

そうしたら「なんでやらなかったんだ」という声や、 たまたまだとは思うんですけれど、民宿やホテルのお客さんが減った、と聞いて「じゃあやろう!」ということで(笑)、そこからまた続けてきたんです。

そこまでの経験ではアーティストは毎年15人くらいがちょうどいいね、という話をスタッフとしていたんですけれど、翌年の2007年にはこれも実験として無理してアーティストを45人くらい呼んだりしました。展覧会としては量で見せるようなかたちになって質が落ちてしまい、現実的な問題として運営する側がものすごく疲れました。

一方で人数が多い分だけ、アーティストが温泉の掃除をしたり、稲刈りを手伝ったり、 そういう意味ではとても評判がよかった年でした(笑)。というのも、ぼくが小学校とか中学校の頃には、夏になると高校生が島に帰ってきていたんです。そして家族の手伝いとか、商店の手伝いをしていたんですけれど、だんだん高校生が夏に帰ってこなくなって、 そうした人出の足りないところにアーティストが入っていったんですね。ほんとうにふつうに、ホテルのシーツ替え、キャンプ場の管理人、プールの監視人になったりして(笑)。それはそれでいいんじゃないかなとも思うんですけれど、やっぱり作り手なので、集中したかったといった反省点もありました。


P8284229.JPG「一筆描きのホシ」相川啓太


作家を選ぶ


----作家は、平嶺さんが選ばれているんですか。作家の方は交通費をほとんど自分で払ってやってくると聞きました。よく、集まってこられますね。

平嶺:作家ははっきり選んでいます。勘でしかないのかもしれませんが、これは面白いかなと思う作家には、「卒業したらどうするの?」といった質問をしたりします。そのときに「そんなの作家を続けるに決まっているじゃないですか」という学生と「家が厳しいので就職しようと思っています」というのと、単純にその違いであったりします。

例えば今年来てくれることになった遠藤一郎さんですけれど、ぼくは本当は遠藤さんのようなパフォーマンスはすごく苦手なんです(笑)。すごく苦手なんですけれど、一郎さんに会ってパフォーマンスのビデオを見せてもらったときに、これは島で子どもたちに見せてあげたいなと思って、即決でしたね。一郎さんは「未来」という言葉とか、メッセージがストレートじゃないですか、そういうのが案外気持ちよかったりして、島の人たちもたぶん腹をかかえて笑うと思うんです。でもすごく真剣な感じが伝わってくるんですよ。

基本的に、子どもたちに見せたい、お年寄りに体感してほしいとか、そういう島目線と、自分の作家としての視点、「この人たちとつきあっていくかどうか」ということ、作家にとっても甑島のあとの活動につながるのではないか、ということで決めています。

でも、甑島まで来てくれる熱心な作家たちは、東京にもどっても積極的に活動するわけですよね。だがら結果としてその後東京でも活躍されている方が多くて、そういうことでKOSHIKI ART PROJECTの名前が広がっているという感じがします。


----平嶺さんが考えている島の問題や将来の構想については、誘われるときに作家に話されるんですか。

平嶺:最初の頃はひどいもので、「南の島で合宿プロジェクトをしませんか」といった誘い方です(笑)。実際に展覧会ができるのか、作家が制作できる環境をきちんと整えられるのか、他にもいろんな不安があったので、あまり言えなかったんです。島のことを考えるということ自体、傲慢というか、「お前、アーティストなんだから自分の個性を考えていればいいんだよ」みたいなことを言われるんじゃないかと思っていました。

でも、島に行けば直接体感できることもあるんですね。展覧会までやるということは、そこの土地の人たちのことも考えざるを得なくなるので、島の歴史や現在のことを、作家それぞれが受け止めてくれたように思っています。

いまはもう堂々と「『七人の侍』みたいなことをやるから手伝ってくれ」と作家に言ったりしていますけれど(笑)。


10年後の夢


----KOSHIKI ART PROJECTはこの後もずっと続けていかれるのですか?

平嶺:展覧会はたぶんずっとやっていきます。一番楽しみにしているのは、ワークショップに参加したり展覧会を見たこどもたちが、10年くらいたって、今のぼくと同じくらいの年齢になって島でなにをするのか、ということなんです。実際に美術の方向に行った子たちもいますけれど、別にアートでなくても、食でも文学でもなんでもいいから、ぼくらが美術や芸術の分野でやったことを、若い子が甑島でやろうとしたら面白いのかな、と。

アーティストになった子がいれば、その子がキュレーションした展覧会をやってもいいと思います。ぼくが選ぶとフレッシュな感じではなくなるような気がしますから、アートであれば若い人と一緒にセッションしたり、どういう企画展をやろうかとか話し合っていけたら楽しいですね。


家族の支え


----ご家族のことをお聞きします。最初は反対されていたということですが。

平嶺:兄弟は3人で、1つ上の姉と、3つ下の弟がいます。美術にいくという道をずっと応援してくれてきたのは姉の純子で、ぼくが出て行くことで欠けてしまったところを埋めてくれているのが弟なんです。弟が会社を継いでくれるということで、ぼくもこっちの世界にこられたということがあって。 

ぼくは車の免許を持っていないので、プロジェクトの1回目の時から手伝ってくれて、素材を調達することとか、協力的だったのはこの兄弟ですね。それがあったのでしかたがなく親も手伝う、じいちゃんばあちゃんも孫だから手伝うというような図式で(笑)。

今は姉が正式なプロジェクトのメンバーとなって、広報や、音楽祭の企画を立てたりしています。いとこの山下賢太も京都造形芸術大学に進んで景観デザインの面から甑島でプロジェクトを企画していて、弟はそうした流れに、若干、焼き餅をやいているような感じです(笑)。「ぼくは美術のこともわからないし、積極的な動きはできないから、そっとしておいてくれ」というような。でも彼がこの12年くらいでたぶんメンバーに入ってくるんですけれど、というか引き込もうと思っているんですけれど、弟が重機や10トンダンプを使えるということになってくれば、即戦力というか、東京のアトリエではできないことができるじゃないですか、しかも低コストで(笑)。

それこそ島の仕事もいまはあまりないものですから、父の会社自体もアートプロジェクトの会社に方向転換するくらいになればいいと思いますね(笑)。ぼく自身も、島で農業もやりながらでいいから、ものをつくる仕事をできるといいなと思っているんですけれど。

それから、今年はうちの祖父が作家でデビューします(笑)。祖父もずっとものをつくることが好きで、自分で刈った稲の藁を使って牛をつくったり、けっこうセンスはあるんです。祖父に限らず、島に在住している人のアートになりうるものを展覧会で発表してもらったり、もの作りでなくても、たとえば庭をいじるのがとても好きなおじいさんがいたら、その人の庭を展覧会会場のひとつにさせてもらうとか、そういうことも考えていて、そうすると島の人たちも展覧会に参加できるし、もっと本音が聞けるんじゃないかと思うんです。ぼくは島出身だから直接言ってもらえるけれど、アーティストは「こんなことやって意味あるの?」と言ってくれる人がいると、「えっ、自分はこれでいいのかな」と考え込むと思うんですよね。そういうことが結構重要だったりするんじゃないかなと思います。


作家として、企画者として


----平嶺さんの中では作家としての活動と、プロジェクトを動かしていくことは、どういうバランスになっているんですか。

平嶺:対立するものではないですね。ひとつのものというか、ぼくの生活というか。この1年くらいで気づいたのですが、自分はきっと美術の業界の人間ではないんです。生き物と触れあったり、そういうことが本当は楽しい。それで選ぶ職業はあったんでしょうけれど、その前に美術に出会ってしまったのかと思います。でも現代美術では、絵や彫刻だけが作品ではなくて、ことばやパフォーマンスなど、いろんなジャンルがあるじゃないですか。だから、人と人を会わせたり、アーティストに島を体感してもらうことによって、あらたな価値をつくりだしてもらうとか、言葉は悪いかもしれませんがアーティストと島をかけあわせる、そして薔薇冠をつくるというような(笑)。

もっとも自分の中で対立しないでいられるというのは、姉の平嶺純子や山下賢太がいることが大きいです。1回目の展覧会のときは航空会社のやりとりや空き家の借り受けの交渉など事務的な作業をひとりでやったんですけれど、そのときにすごく疲れて、これは山下か姉をいれなきゃいけない(笑)、スタッフが必要だなって思ったんです。ですから今は悩まずにいられてすごく助かっています。

逆に作家を選ぶことや、この作家のこの作品なら島のこの場所がいいんじゃないか、この作家だったら島でこういうことを感じるんじゃないだろうか、そうしたイメージトレーニングが、自身の制作にあたっていい方向で働いているような気がします。

ふつうにアーティストがやろうとしたら、たぶん背負えないと思います。2004年にはじめたときに、「おまえ、アーティストやめちゃうの?」とよく聞かれたんですけれど、今ではぼくのなかではプランができているから矛盾しないんです。

とにかくぼくは島のことを考えると興奮するんですよ。いまはこんな話し方をしていますけれど、島に行ったら違いますからね(笑)。今の自分もほんとうだと思っているけれど、島では大声だして子どものように激しく動き回るとか、それこそ遠藤一郎さんみたいなことをして、島の人がわっとなるのが好きなんです。去年のお祭りには髪の毛をモヒカンにしたり、東京にいるときとは全然違います。だからそういうことを東京でもできている遠藤さんはうらやましいです(笑)。


失われたものを取り戻すために


----AAFのプログラムでも、もともと住んでいた人が一から立ち上げるプロジェクトは意外と少ないんです。平嶺さんの、ご自身の記憶に近づけようとしていくかのような発想のしかたが面白いと思います。島は平嶺さんにとっての「王国」というか、そこへ行けば実際にエネルギーを得られる場所であり、一方で、その場所が刻々と崩壊していくのも見ているわけですね。もちろんできることはされていても、変わっていくものを押しとどめることはできない、それも厳然たる事実だと思います。AAF2009の選考時の公開ヒアリングのときに、「島に帰って暮らしたいと思われますか」という質問がありましたね。

平嶺AAFの公開ヒアリングでは、山下賢太と姉との3人とも、すごく楽しんでいました。島では応援してくれる人もたくさんいますけれど、まだまだ理解してもらえないところがあります。 公開ヒアリングの場で、「えっこんなにわかってくれる人がいっぱいいるんだ」と感じたときに、それこそAAFに参加してよかったんだ、というか、自信にはなりました。

そのときも即答したと思うんですけれども、島には迷わず帰りたいんですよね(笑)。でも、帰っても仕事がない現状がやっぱりつらいというか。だから島の外からまず環境をつくっていって、そして島の人たちにも理解してもらって、暮らせる場をつくっていけるといいなと思います。

「王国」ということで言えば、ぼくはすごくいいタイミングだったなと思っているんです。楽しい場所であり、それが変わっていくところも見られたわけです。しかも行動に移せるような年齢にもなっていました。でも甑島で起きていることは、全国でまた違った形でも同時に起きていて、それをなんとかしたいという動きも全国的にあるわけですね。アートという場で、そういうことを考えて活動されている人たちにはとても励まされます。

甑島に住んでいる人たちはもっといろんなことを感じているだろうし、悩んでもいると思うんですけれど、外側からでも感じられる、帰ったときだけでも感じられるのはすごくよかったな、と思いますね。今の子どもたちはもう気づけないかもしれないじゃないですか。すでに失われていたか、そうでなくても最初から島を出て行くことが前提になっている。島ではもう生活できないから本土の方で暮らしていくんだよ、という教育がなされているかもしれません。実際、かつては子どもたちが島を出て高校へ通うときには、1人で旅立ったんです。最初に言ったようにそれを「島立ち」と言っていました。でも最近は親もついていって鹿児島のマンションで生活したり、家族で島を離れる人も多い。でもぼくは「島立ち」の教育を受けてきたからこそ、戻ってこようと思っていたんですよね。親も自営業やっているので、戻ってくるように教育していたと思うんですけれど。


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いま、なにかが動き出している


----最後にお聞きしたいのですが、平嶺さんにとって、KOSHIKI ART PROJECTにおける到達点というのはどういうイメージですか。

平嶺:単純に、島の人たちの「今年はよかった!」という一言だったり、ぼくらの活動をひとつのきっかけとして、島の人たちが行動し始めるということでしょうか。

ぼくらのプロジェクトと直接関係があるかどうかはわからないんですけれど、地元にはぼくらが小さいころから食べていた「きびなご丼」というのがあります。これを島外からくるお客さんに食べてもらおうということで甑島の飲食店に広めようという動きが今、島であるんです。

それから、今度のAAFのオープニングパーティーには、漁師さんたちが、その名産のきびなごを持って来てくれるんですよ! そうしたことがぼくらには、成功しているという実感ですね。

行政も、プロジェクトの最初の頃はまだ村だったのですが、課長さんや、村長さんに 340万円という見積を出して、「このくらいのお金がかかるんですけれど、ください」と言ったんです(笑)。もちろんダメなんですけれど、それが少しずつ変わって、甑島で文化的な活動をおこなう学生を支援するということで1団体5万円、上限20万円なんですが、「こしきアイランドキャンパス」という助成制度を市がつくってくれたんです。

今度の自治体総合フェアでも、薩摩川内市から「私たちが推薦できるのはKOSHIKI ART PROJECTじゃないか」ということで連絡をいただいて、「ぼくたちでいいのなら、よろしくお願いします」ということで、応募したんです。そうしたら地域に密接に関わって街づくりをしているということで、優秀プロジェクトに選ばれて表彰されることになって(事務局注: 7月8日に優秀プロジェクト5点のうちからグランプリ受賞が決定)。島のことを多くの人に話せる機会なのでうれしいと思っているんですが、そういうことも今まではなかなかできなかったんです。

鹿児島でも姉の知り合いの人たちが核になって「KOSHIKI応援隊」というのを作ってくださって、さまざまな形で応援してくれています。

それから島に戻れなくなった人たちが日本中にたくさんいます。その人たちは、島に住んでいないのだから意見を述べたりしてはいけないという遠慮があったと思うのですけれど、ぼくみたいなバカなヤツがいるから(笑)、ほかの土地にいても島のことを思っているのだったら、応援したり、島でなにか活動してもいいんだ、という動きがあって、若い人たちが応援隊の中に入ってくれてPRをしてくれたりしています。

いま、島が立ち直っていく瞬間をリアルタイムでみている。実際ぼくはそれをすごく感じています。ここ12年でしょうか、自治体総合フェアのことや、鹿児島のメディアでぼくらのことが紹介されることで、島の人たちが元気になるんですよね。正直なところ、ぼくらがこれからも続けていかれるかどうか、不安はあるんだけれど、島の人たちがやる気になっている様子をみると、やっぱりやろう、と元気をもらえるんです。

姉はいま鹿児島に住んでいますが、この6月からアートプロジェクトに専念します。「あなたはPRがうまいので、協賛金をもらって自分で生活しつつ、やってください」と姉に言ったらその気になってくれて、パン屋さんのアルバイトをやめました(笑)。来年あたりからは、島の空き家を借りてそこに姉が住んで、アートセンターとしてアーティストのレジデンスも年間を通してやれないか、相談しています。

いま、いろいろなことがすこしずつ繋がって、ぼくらの活動もまわりはじめて、アートプロジェクトもいままで拠点にしていた集落から広がって、そんなふうにどんどん動いていて、いったい今年はどうなるんだろう、とワクワクしているんです。

2009611日採録、東京都新宿区左門町P3オフィスにて)