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コラム 2016.03.18

#57 黒田恵子(合同会社 グランドゥ)


気づけば12年。この小さな町に根を張っていた。
当初、「自分らしいことがしたい」と思いこの河原町と出会った。
この町の時の止まったかのような異空間さと「クリエーターの町」としての動きに共感し、店を構えた。
疲弊したシャッター街の誰も知らないこの町で、店を構えるなんてとてもチャレンジングなこと。
1馬力より複数の馬力で力を合わせてやるしか手はない。
すぐさまプロジェクトに賛同し活動を始める。
新参者として様子を伺いながらその場にいる。
今後の河原町のあり方を話し合うミーティングが数回行われる。が違和感がある。
人前で話すのは嫌だ! 思っていても発言できない! そんな言い方されたら言えなくなる!
なんだか今まで体験したこともないような参加者の消極的な態度やミーティング後の発言。
そんなことでまとまれるはずもなく、すぐさま消滅、そして任意組合の発足。
そこから始まった「町の再生」、アートの取り組み。
模索しながらあれこれアクションを起こし精力的にやってきた。
やりたいことを団体として取り決め、それを遂行していくことを地道に行った。
継続させることが唯一できることと、休むことなくイベントと紙媒体の発行を執り行う。
広報にも力を注ぎ、あらゆる取材をことごとく受け入れた。
その先にAAFの存在を知り5年間の長いお付き合いとなった。
しかし任意組合の変化もそこから生まれる。
やりたいことをやれる範囲でやればよかった状況から、期限のあるやらなければならない義務を負うことになった。
協調性を問われ、制約までのしかかり、責任も伴う。
そうしたことがどちらかというと苦手とする人が多いクリエーターに課せられたものは想像以上に大きかったようで、これを機に組合員の疲弊が始まり、またもや消滅。
それ以降は任意団体に変え、外部からもスタッフを募り私自身代表となって縦横無尽な外交活動に奮起。
文化庁長官の視察や経産省のヒアリングも、功を奏したことを実感する。
おまけに空き店舗の誘致活動にも繋がり、ここに来て用途は様々ではあるが賃貸契約可能な場所は埋まることとなる。

気づけば12年。やっと達成感を感じる。
自身の達成感はあるが「町の再生」は成し得たのか。
とんでもない。何が変わっただろう。
12年間あれこれ模索しながらやってきたイベントや広報は、きっかけは生みだしてくれる。
しかし平常時にそのきっかけを繋げられるか、活かせるか、とても重要なこと。
相変わらずの不定営業、本人のご都合優先商売、いや商売という言葉すら適切ではない感じ。
町は商店主の意識で作られる。それを取り巻く環境(建物の魅力・利便性・歴史・地の利)はきっかけでしかなく、やはりそこに人の気配が、エネルギーが、あるかどうかだと思う。

気づけば12年。河原町繊維問屋街の建物も老朽化している。
昨年の台風でアーケードの波板の屋根は吹き飛び、未だ修理のめどもつかず危険度が増す。
震度3程度の地震でも、問屋街のどこかの建物から、何かが地面に落下している。
毎月やっていた「河原町アートの日」と毎年開催していた「河原町アートアワード」も本年度で終了。建物やここを取り巻く環境のリスクが増えたことが原因だ。
考えてもみなかった終わりを2016年3月13日(日)に迎えることになった。

長いこと活動しているとそれは執着になっていったように思う。
執着してしまうと保守的になる。それはつまらないし何かを守りたいわけではない。
手放したことで新たなスタートが生まれた。
河原町を離れ次なる町への挑戦。
執着ではなくこの町が愛着に変わる。
そんな愛着のある町をたくさん作っていくこともいい。
一人旅をしているような刺激と異文化との出会い。
お互いの違いを双方から理解し合う時間。
理解し合えることで、興味が生まれる。
その先に情が生まれ、愛着になっていく。

気が付けば12年。久しぶりに旅を始めます。



プロフィールデータ.jpg
黒田 恵子 KURODA Keiko
1966年生まれ 合同会社 グランドゥ代表。
上京しモデル・タレントとして活動したのち、画廊での勤務、 フラワーコーディネーターとしてフリーランスで東京、横浜を中心に活動。 帰郷したのち2004年からシャッター街となった河原町繊維問屋街を知り ギャラリーカフェ(GALLERY ADO)を開業。 「クリエーターの町・アートの町」とした取り組みに力を注ぐ。 2016年4月から依頼のあった新天地(健軍商店街)に移転し、 オルタナティブスペースの運営を始める。