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コラム 2014.10.20

#40 坂田太郎(サイト・イン・レジデンス/P3 art and environment リサーチャー/アサヒ・アートスクエア サポートスタッフ)


現在、自宅の近くの一つの土地に、アーティストと定期的に通っている。このプロジェクトを構想する過程で、思い出した風景や考えたことについて、思いつくままに、とりとめもなく、書いてみたい。

十数年前にみた風景を今でも何度も思い出す。1999年3月、高校3年間サッカーに取り組んだ私は、どうしても本場欧州のサッカー、なかでもとりわけFCバルセロナの試合が観たくて、旅行代理店のアドバイスのもと、スペイン北東部、バスク地方の小さな港町サン・セバスチャンに向かった。対戦相手はバスクの名門チーム「レアル・ソシエダ」。バスクといえば建築家フランク・ゲーリーのグッゲンハイム美術館のオープン以降、一躍都市再生、クリエイティブ・シティの象徴的存在となったビルバオが有名だ。この町のチーム「アスレチック・ビルバオ」は、純血主義を貫き、選手はピレネー山脈をまたいで広がる「バスク地方」出身者のみでチームを構成する。それなりの年齢だったから、バスクと聞くと独立志向で、ある主の弾圧に避難する人々を描いたピカソの《ゲルニカ》、急進派が起こす爆破テロなども思い出し、サン・セバスチャンはどんな町だろうと少し不安にもなるが、アムステルダムとマドリードを経由し、町のセントラルでバスを降りると、静かでのどかな港町。美しい海を観ながら、ホテルに向かう頃には、頭の中はサッカー観戦一色、不安はどこかにいっていた。

試合当日は、バルセロナ、中でも細身ながら中盤で華麗にパスを散らすグアルディオラのプレー、そしてスポーツである以上に、人々の生活に根付いた「文化としてのサッカー」をスタジアムや街路、町の酒場で心の底から楽しんだ。しかしそれ以上に私を魅了したのは、試合の翌朝、ホテルの窓の向こうに現れた光景だった。恐らく日曜日だったと思う。昨夜の喧噪から解放され、海岸近くの山頂のホテルで目を覚ます。そして、何の気なしにさっとカーテンを開けると、眼下の砂浜には、遠く、見えなくなるまで、サッカーコートとゴールが並び、プレーに興じる無数の人々の姿がそこにあった。
一瞬目眩いにも似た感覚を覚える。昨日、この町に着いたとき、海岸に砂浜はなく、石垣まで海水が満ちていたはずだ。海岸沿いの整備された歩道を歩き、右手に海を眺めながらホテルに向かったのだった。それは記憶違いだったのだろうか。とにかく、ベッドで眠る友人を叩き起こし、二人で急いで海岸まで駆け降りる。キツネにつままれたような気持ちで、靴を脱ぎ、波打ち際を歩く。そこでは、斜めに傾き、足がとられやすい砂浜という悪条件をものともせず、少年から大人までが本気で体をぶつけ合い、全力で、生き生きとボールを追っていた。2、3時間、そんな景色をぼんやりと眺めていただろうか。時間が経つにつれて、一つ、また一つと、コートから去っていくチームがある。気がつくと、彼方にあった波打ち際が、コート間際に迫っている。潮が満ちてきたのだ。中心街でお昼を食べ、買い物をして戻ると、朝の喧噪が嘘のような静寂。砂浜一つみえない海に、引いては寄せる波がただそこにあった。
満潮時と干潮時の到達ラインに大きな差があるために、出現と消失を繰り替えす場所を生態学で「潮間帯」という。上空、38万4400kmの距離で、地球の周りをぐるぐる回る月の引力によって一時的に出現するこの場所を、共有地としてサッカー場にかえてしまう彼らのしたたかさに関心するとともに、サッカー文化の厚みの圧倒的な差、そしてさらに現れては消える、かりそめのフィクションのようなその場と人のつきあい方に、高校生ながら「美しさ」を感じたことを今でもおぼえている。今になって思えば、規制や海岸利用のルールはどうなっていたのか。誰が始めたのか。そんな興味も次から次へとわいてくるが、何よりも今もあの場所に、同様の風景があって欲しいと心から思う。
 
大学に進み、アーティストが「カフェ」をキーワードに様々な実践を展開した2000年代初頭の時代の動きとも共振するかたちで、友人たちと空き家に住みその場を開放したり、大学内に共有空間を作ったり、ハワイでホームパーティーカルチャーをリサーチしたりと、私は自身の興味を、人と人が出会う交歓の場づくりに振り向けた。しかし、そこで行われる交流のためのプログラムづくりやワークショップといった企画づくりよりも、そもそもそうした場所がなぜ生まれたのか。そうした人と人が何かを共有する風景がなぜ可能なのかに、興味が向かっていった。例えば、空き地があった場合に「何をしたら面白いか」と考えを巡らすよりも、「なぜここに空き地があるんだろう」と考えてしまう。それは、その場所の用意のされ方が、その場所で生まれるアクティビティに大きな影響を与えると無意識に感じたからだろう。一口にオープンスペースと言っても、その成り立ちは千差万別、さまざまな歴史がその背後にはある。「いま、ここ」を固定された場所ではなく、「出来事としての」場所、プロセスとしての場所として、考えたいと思うようになっていった。

それから10年ほどが経ち、結婚し子供が生まれ、妻が熱心に勧める幼稚園へ見学に行ったとき、再び印象的な風景に出会った。観光地として賑わう横浜臨海部から南西へ15キロ、戸塚駅からバスに乗って20分ほど、典型的な郊外住宅地を歩いていると、突然視界が開け、ぽっかりと空き地が広がる。パラボラより一世代前だろうか、様々にケーブルを張った、初めてみるアンテナが多くそびえ、その下や周囲の空き地に無数の家庭菜園や野球場、ゲートボール場が広がっていた。後で調べ、そこが米海軍の基地だと知る。そしてその風景にどうしようもなく魅かれ、この「風景に関わってみたい」と強く思った。彷徨い歩き、たまたま出会ったおじさんに声をかけ、運良く私も畑を始める。家庭菜園なんて偉そうなことは言えない、土遊びがいいところ、収穫も滅多になかったが、それでも定期的に通い、その風景を眺めていた。
海岸の風景と基地の風景が、自分のなかで重なってくる。無数の人々が使っている。どちらもある特異な条件が作用し、恒常的ではなく(期間は違えど)一時的なプロセスとして生成している場所だ。だから土地の所有や線引きどこか曖昧(なように思える、憶測も含めて!)で、輪郭線が淡い。だからこそ、開かれているが、といって完璧にパブリックな制度ではない。こういう場所は、どこにでもあるものなのだろうか。

今年の6月、急遽基地が返還されることを新聞で知り、次いで人づてに、土地への立ち入りも2015年3月いっぱいであることを知った。いてもたってもいられなくなり、何ができるかを考え、信頼できるアーティストに声をかけることにした。ただ、声をかけるときには、記録の依頼ではなく、この土地の風景を一緒に眺めてもらいたい、そして眺めながらできることを一緒に考えたい、そしてアーティストにとって次につながる活動を生み出すつもりで、自由に発想してもらいたいと伝えた。オープンエンドな形式で、どちらかといえば、アーティスト・イン・レジデンスの発想に近いのかもしれない。ある期間、ある土地と深い関わりを持つ。そこから何かを発想してみる。サイトへの意識を重視する意味を込めて、プロジェクト名を「サイト・イン・レジデンス」とし、今年のテーマを生物学者ユクスキュルの提唱した概念にならい「環世界」とした。
ユクスキュルは単なる環境とは区別し、「主体が意味を与えて構築した世界」を<環世界>と呼んだ。一つの土地も、人間とノミとミツバチのように生物種が違えば、みえる世界が違いその土地の利用手段も異なる。真ん丸の環で区切られたこの一つの土地には、地域住民、利用者、米軍基地、生息する無数の動物や昆虫たち、それぞれが見ようとする様々な<環世界>と利用があり、そしてそうした幾つものレイヤーが圧縮された風景には、深く問いかける力がある。この7月より3人のアーティストと定期的にサイトに通うなかで、それぞれが、この風景のどの「環世界」に照準を定め、応答しようとするのか、傍らでじっと眺めている。彼らの視線を通して、記録と表現、共有地、所有、日米関係、都市の郊外、土と植物と宇宙、食料生産と地産地消などなど、目の前の風景から、様々なイシューが浮かび上がってくる。

この先どのような展開になるのか、正直よく分からない。ただ焦らず、じっくりと土地に耳を傾けながら、ゆっくりと進めることは決めている。


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坂田太郎 SAKATA Taro
サイト・イン・レジデンス/P3 art and environment リサーチャー/アサヒ・アートスクエア サポートスタッフ
1980年神奈川県生まれ。P3 art and environment、MeMe Design School、アサヒ・アートスクエア[NPO法人アートNPOリンク]での勤務を経て現職。AAF2006〜2008年事務局を担当。アサヒ・アートスクエアでは寺内大輔、岩渕貞太、蓮沼執太、山城大督との共同プロジェクト、北川貴好、福永敦の個展、ロングパーティー「フラムドールのある家」などを担当。現在、自宅のある横浜市で「サイト・イン・レジデンス」を展開。
Photo: 樋口勇輝

参考:
1)「プロセスとしての場所」に関しては、アサヒ・アートスクエア リサーチジャーナル01「スクエア」の編集作業で考えさせられたことが多くありました http://asahiartsquare.org/ja/journal/post/1036/
2)サイト・イン・レジデンス「環世界」 http://www.siteinresidence.org/