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レポート 2012.03.10

2011交流支援プログラムレポート13 「おじさんの生まれた島へ~あるおじさんの周辺からみる隠岐と横浜」


AAF参加団体、ネットワーク団体の担当者が交流する「地域間交流支援プログラム」。今回のレポートは2011年12月に「外浜まつり実行委員会(隠岐アートトライアル実行委員会に改称)」を訪ねた「ART LAB OVA」のスズキクリ+蔭山ヅルさんです。
 
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<レポート>

ときどき横浜パラダイス会館に立ち寄ってくれる映画好きのおじさんが、終戦の1週間後である昭和20年8月22日に島根県の隠岐に生まれた、ということを知ったのが、今回の旅の始まりだった。

そのおじさんは、横浜下町パラダイスまつり関連の、韓国映画を観たあとに韓国料理屋で食べる企画に参加してくれた。「おじさんは韓国が好きなのですか?」と聞くと、「韓国映画も韓国料理も生まれてはじめて。なぜなら、竹島は隠岐だから。そういう教育を受けてきたんだよ」と。

多文化化の進む、典型的な都市で開催する「横浜下町パラダイスまつり」と、離島のプロジェクトである隠岐の「外浜まつり」の間には何の接点もないと思っていた。が、横浜の中心部の住民は、少しさかのぼれば全員移民だったことに改めて気づかされた。
一人の移民のルーツをたどることで、横浜若葉町の何かが見えてくるかもしれないと、わたしたちは隠岐に向かった。

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隠岐は「諸島」であり、外浜まつり実行委員会は「島前(どうぜん)」と呼ばれる三島のうちの「西ノ島」に、おじさんの生まれ故郷は「島後(どうご)」と呼ばれる違う島にある。

外浜まつり実行委員会の代表である松浦道仁さんは、標高300mの焼火(たくひ)山に唯一ある建造物、1000年伝説のある焼火神社の21代目宮司だ。今回、松浦さんが小学校にあがるまで家族で暮らしていたという、神社のとなりにある社務所に泊めていただいた。
洞窟神社と呼ばれる本殿の迫力。そこからの絶景。生活用水はすべて神社の池の水。飲料水は裏の清水を沸騰して使っているなどすべてが驚きの連続だった。
戦時中に天皇の御真影(肖像写真)と教育勅語を納めていた「奉安殿(ほうあんでん)」についても、外浜まつり実行委員会が主催した、「隠岐アートトライアル2011」の舞台となった大正14年築の旧美田小学校の木造講堂ではじめて知った。

学校体育館.jpg
旧美田小学校講堂 *中心にある扉の中が奉安殿。

数あるAAFの、たぶん日本中のアート・プロジェクトの中でも、地元の宮司が代表を務めているのはここしかないだろう。3泊4日、あちこちをご案内いただき、朝から晩まで様々なおしゃべりをしたことで、コミュニティのシンボルである神社に生まれ、1970年代に東京で大学生活を送る中、ハプニングや赤テント黒テントなどの前衛芸術に遭遇してきた松浦さんが、今こうして外浜まつりの実行委員長になっているのは、偶然ながら当然の成り行きであることがよくわかった。
そんな松浦さんは、アートディレクターの岡田毅志さんや田島史朗さんが島外に住む「よそ者」であることが重要、という。一方で、それぞれが隠岐に惹かれて移住してきていたニューカマーのアーティストたちも、「にいな」というグループを作り、活動をはじめている。地元の宮司とよそ者のアーティストが手を組んだプロジェクトの中で、ニューカマーの活動が生み出されたというのも興味深い。

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久見漁師.jpg
隠岐島後(どうご)では、お父さんが戦前に竹島に漁に行っていたという漁師のおじいさんの話を聞きに行った。
当時、隠岐の漁師たちは、韓国済州島の海女さんを雇って、竹島に1ヶ月くらい泊り込み、なんと「アシカ漁」をしていたという。意外な話の数々は興味深く、思わず聞き入ってしまうことばかりだった。そして、聞けば聞くほど、それがやはり個人の問題ではなく、国家の問題であることがくっきりと浮かび上がってきた。

隠岐の帰途、鳥取で昔からの知り合いである「鳥の劇場」を訪問、蛇谷りえさんと三宅航太郎さんの「うかぶ」で、鳥取大学地域学部地域文化学科の講師になった小泉元宏さんたちと鍋を囲んだ。
鳥取でもあちこち案内してもらったが、ここは島根よりもずっと積極的に、韓国との距離を利用して観光客やビジネスを誘致しようとしているようにみえた。
ある人がいった。「島根県は竹島の問題を抱えているから、なかなか同じようにはできにくいのかもしれませんね」
たしかに、島根県の観光地にも、鳥取と同じように、英語、ハングル、中国語表記の説明書きがあった。しかし、それ以上に目立ったのは、松江駅前や島後のあちこちに見られた、まだ新しい「竹島かえれ 島と海!」という大きなスローガンで、それが鳥取とは決定的にちがう風景だった。

かえれ竹島隠岐島みなと.jpg
島後・西郷港

一方、ふだん横浜に住むわたしたちにとって「竹島」は、多くのニュースと同様に、報道されれば気になるけれどすぐに忘れてしまえるような問題だ。
こどもの頃から見慣れた静かな海では、どこの言葉か読めないような文字のゴミが打ち上げられることなどなかったし、海の向こうはいつも果てしなかった。
しかし、今、目の前で波しぶきをたてている海の先には、確かに他の国があるらしい。船を出して100キロも行けば、そこはもう、あいまいな領域で、下手をすると拿捕されてしまうかもしれないのだ。
隠岐で生まれたおじさんが横浜に移り住み、大手企業で働き、そして引退し、大好きな映画を見て過ごす日々を送るようになるまでの66年間。東京や横浜に生まれ育ったわたしたちが、無自覚のうちに棚上げしてきた問題を、おじさんはいつも傍に見ていたにちがいない。
そのとき、福島原発が東北ではなく、「東京電力」であったことを知ったときと同様の、なんともいえない心地の悪さを感じた。しかし、同時に、今まで地図上でなぞっていただけの日本の「領土」や「国境」を、生まれてはじめて体感できた気がした。

竹島161キロ.jpg
島後・白鳥海岸の道標 *つい2~3年前まで「竹島161km」のほかは「ウラジオストク803km」「金沢295km」「釜山409km」だった。

旅の最後に、隠岐から横浜へ新鮮な魚介類を送った。
12月18日の国際移民デーに、若葉町の韓国料理店で、店のマスターといっしょに、焼肉用のグリルでカニやイカを焼きながらランチをした。
土産話を話すわたしたちに、韓国の東海(日本海)沿岸部で生まれ育ったマスターは、「済州島の海女」といえば韓国では知らない人がいないくらいに有名なんだよ、と教えてくれた。その翌日「金正日総書記死去」、数日後「隠岐に北朝鮮籍の漁船が漂着」のニュースが飛び交った。今は、若葉町にいても国境がリアルに感じる。

映画好きのおじさんの生まれ故郷を訪問するためにはじまった旅は、ここでは伝えきれないほどの多くの宿題をわたしたちに残した。
他方で、フェリーを追うイルカの群れ、奇跡の前兆のように雲の隙間から差し込む太陽や虹、奇岩群や樹齢数百年の杉の木など、眼前の隠岐は、そんな深刻な問題とは無関係にそこに在った。
「一生に一度は隠岐へ」のキャッチコピーの通り、色々な意味で、一生に一度は行っておくべき所だと思った。

▼隠岐・西ノ島の戦中と戦後の記憶インタビュー(YouTube)
▼隠岐焼火神社夜話(YouTube)
▼隠岐・焼火神社「アワビ炭焼き夜話」(YouTube)
▼洞窟にある神社「焼火神社」(YouTube)
▼luncheon at Incheon in Yokohama
ランチョン・インチョン~若葉町インチョン空港でお食事を

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<開催概要データ>
[企画名]「おじさんの生まれた島へ~あるおじさんの周辺からみる隠岐と横浜」
[実施日] 2011年12月7日(水)〜12月12日(月)
[招聘者]外浜まつり実行委員会(隠岐アートトライアル実行委員会)【島根県隠岐郡西ノ島町】
[訪問者]ART LAB OVA アートラボ・オーバ(スズキクリ+蔭山ヅル)【神奈川県横浜市中区】
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<タイムテーブル>
◎12月07日(水) 夕刻 西ノ島着 
◎12月08日(木) 旧美田小学校見学
◎12月09日(金)「西ノ島の戦中と戦後の記憶」インタビュー。「にいな」と交流会
◎12月10日(土)~12日(月) 島後にてフィールドワーク

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<執筆者プロフィール>
オーバマーク小.jpgのサムネール画像のサムネール画像
ART LAB OVA
1996年、アーティスト・ランの非営利団体として設立。
横浜唯一の独立系映画館「シネマ・ジャック&ベティ」1階の横浜パラダイス会館を拠点に、映画館、スナック、商店街、動物園、学校、福祉施設など、まちの狭間で「場」や「出来事」を通じて「関わり」を探るアートプロジェクトを展開。
現在、毎年夏に「横浜下町パラダイスまつり」と映画祭「よこはま若葉町多文化映画祭」を同時開催している。