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コラム 2009.10.07

ART LAB OVA 「横浜下町パラダイスまつり」に至るまで。(1)


話し手╱蔭山ヅルさん、スズキクリさん
聞き手╱AAF事務局

スズキ クリ/音楽家
東京巣鴨出身。横浜野毛在住。演奏や作曲活動のほか、ヴィジュアル・アートや演劇、ポエトリーリーディング、最近では手塚夏子、捩子ぴじん等、ダンスとのコラボレーションも多数。1996年よりART LAB OVAとしても活動している。
蔭山 ヅル╱アーティスト
横浜出身。美術大学を卒業後、欧州、アフリカ、東南アジアを放浪。1992年ころより自身の制作発表とアートプロジェクトを開始。96年よりART LAB OVAとして活動している。
ART LAB OVA(アートラボ・オーバ
アーティスト・ランの非営利団体として、13坪のアートセンターを拠点に、映画館やスナック、商店街、動物園、福祉施設、学校など、まちの狭間で「場」や「出来事」を通じて「関わり」を探るアートプロジェクトを展開している。
・ホームページ 
・横浜下町パラダイスまつり*よこはま若葉町多文化映画祭ブログ
・ヘンてこかわいいオーバのブログ 
・mixi『ART LABOVA』コミュ
・YouTube


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スズキクリさん




アウトサイダーアートとの出会い

---- 最初にART LAB OVAとして活動される前のことからお話を聞かせてください
スズキ:蔭山は武蔵美だったんだけど、ぼくは学生時代からバンド活動をやっていて、音系サークルが武蔵美にたくさんあって、そこのスタジオが使えるのでよく遊びに行ってたんですね。蔭山とはそこで知り合ったんです。
蔭山:大学卒業後、私はバックパッカーで、始めはヨーロッパの美術館なども回っていたんだけど飽きてしまって、それで、アフリカにも行き始めたりして、その中でアウトサイダーアートにも出会って、ヒッチハイクしてまでそうしたアートを探していたんです。
大学卒業して随分経って、スズキとも共通の友人にたまたま道でばったり会ったら、中学でしょうがいのある子の先生をやっていると言われたんですね。「卒業生のアトリエをやっているんだけどすごいおもしろいから遊びに来れば」と誘われて。
90年代の初め、その頃私がちょうど30歳で、30年生きてきてわざわざ海外まで行っていたのに、こんな身近なところに面白い人たちがいるじゃん、と驚いて。
自分ではそれまで自由に生きているつもりでも、大学やバイト先でもしょうがいのある人に会わないし、絵も見たことがなかった。たとえば、美術館とかギャラリーが「これがアートだ」というものしか見えていないし、この辺歩いている人たちの絵を見る機会ってないじゃないですか。
スズキ:ぼくは音楽をやっていて、バンドのスタイル自体に窮屈なものを感じていた時期でした。しょうがいのある人ということに対しては、ぼくは巣鴨で育ったんですが、元々子どものころに周りにいたんですね。うまく言えないけれどすごく好きな存在だったんです。なんかこう...
蔭山:うらやましい?
スズキ:そう。そんなに一緒にいたということもないんだけど、例えば、個別支援学級の子が授業に乱入してくるとか、そういうことにある意味わくわくしていたというか、共感を持っていた。
蔭山:スズキとはたまたまバイト先がいっしょで、アウトサイダーアートに興味をもっていたことも知っていたし、そんなこともあって私がそのアトリエに行き始めたときに声をかけたんです。結局私はアート・ボランティアとして、1年か2年やってたのかな。そうしたら突然その関連施設で働いてほしいと言われて、全然そのつもりはなかったので断ったんだけど、最終的に、まあやってきたことが認められたんだったら、ということで職員になったんです。

福祉施設ではたらく

蔭山:そこは当時としては考え方も新しくて面白いところもあったけれど、90年代初めくらいだとまだどうしても「しょうがい者が作ったものだから買って」みたいな感じがあったんです。私たちは、福祉のそういうところがすごいいやで、ただ「助けるためにやってあげる」というのだったら、絶対やりたくなかった。
ちょうどその頃、バブルが崩壊し始めていて、ベンツとかベネトンが社会的なコマーシャルを出し始めた頃で、社会的な活動ということに関心が持たれた時期でした。バブル絶頂期にクリエイターになった大学時代の友人などは使い捨てのような働き方をさせられて疲れきっていて、「自分たちは何をしてきたのか? 何をすべきなのか?」と自問自答をしていました。だから、こちらの話をするととても興味を持ってくれて、かといって彼らはしょうがい者に会ったことがないし、知り合う機会がない。そんなこともあって施設の職員になったときに、友人のデザイナーにデザインしてもらってTシャツを作ったり、オリジナルグッズを作ったんです。スズキもね。
スズキ:多重録音の作品、ちょっと変わった音楽なんだけど、そういうものを作って、カセットテープで売ったりとか。
蔭山:アニメーションも作ったよね。あの頃はフロッピーで売ったけど。
---- それは何年頃ですか?
蔭山:94~5年。だけど、元々が学校の先生が始めたところだったこともあって、ある程度まわりにわかりやすい、きれいなものが好まれたんです。だから、ちょっとえぐいところとか、変なところは評価されにくい。でも、私たちはそこがおもしろいと思っている。たとえば、スズキの多重録音の作品はめっちゃくちゃ面白いけど、全然評判がよくなかった(笑)。音楽だったら「みんなでなかよく合奏すればいいじゃない」ということなんですが、そのために働くのはとても抵抗がありました。それで、アート・ボランティアとしてやっていたことが評価されて施設の職員としてよばれたわけではないんだな、と気づいて、これはちょっと福祉の業界ではできないな、と感じたんです。
でも考えてみれば、本来アーティストは自分でバイトしたお金をつぎ込んだりして作品を発表している。それが給料がもらえてしまったから窮屈になっただけで、この活動自体を自分たちのアートプロジェクトにすればいいんだ、と考えて。

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蔭山ヅルさん



ART LAB OVAのはじまり

スズキ:自分たちで一からやれば、それが一番いいんだろうなと思って、とりあえず始めたんです。個々のつながりでやった方がいろんなことが明確になる。
---- エイブル・アート・ジャパンとか、そういう流れができる前のことですか?
蔭山:本当に偶然なんですが同時期なんですよ。エイブル・アート・ジャパンも94年に始まっている。
それから当時は1998年のNPO法もできる前ですから、アーティストが助成金を受けて、しかもグループでNPO活動するなどという考え方がまったくない時代です。でも、私たちは施設で働いたことで福祉関係の助成金のことを少しは知っていたので、これはなんとか行けるんじゃないかと思って始めたんだよね?
スズキ:だけど最初は、というか今もそうだけど(笑)、実際には資金的なことはかなり厳しい状況があってほとんど画材も持ち出しで無料で施設を回ったり。
蔭山:リュックに背負って持って行く。だけど子どもとしょうがいのある人の場合一番むずかしいのは、本人に直接情報を伝達するすべがないことなんです。私たちが施設を辞めたときには本当に疲れ切って1年間休んで、もう絶対、個人間の関係しか信じないと思って立ち上げたんですけれど、情報を伝えたくても福祉施設以外に連絡のしようがなかった。
結局50か所くらいの福祉施設に、「こちらから画材持って行きます」という案内は送ったけれど、まだエイブル・アートもほとんど知られていないころですし、連絡が来たのは50か所中2か所だけでした。
---- 一番最初の頃ですものね。いまはアートで表現するということを柱にしているところがたくさんできていますよね。
蔭山:でも、今でもアーティストが主体的にやっているというのはないですよ。画家の先生が講師として福祉施設に入るとか、福祉施設がアーティストを雇って、というのはあるけれど、アーティスト自体がやっているというのはほとんど聞かないです。

スタッフ3名となる

蔭山:オーバを立ち上げたころ、私たちは「だれでも」といいながらも、どうしてもしょうがいのある人にこだわっていたところがあって、「しょうがい者」と打ち出したいという気持ちと、だけど一方で「しょうがい者とは誰なのか」という疑問もあってその矛盾にずっと悩んでいました。
それから見たこともないような表現がおもしろいと思いながら、直接ではなくても、「これがもうちょっとこうだったらいいのに」と、なにかを示唆するような行為をしていたりとか、ふと気づくと、結局は額縁に入れて美術館に飾るようなことというか、ともすると彼らの制作や作品で自己実現を代替する方向にむかってしまったり。
96年にオーパを立ち上げて、そんなことに悩んでたときに、当時美大生だった、ひと回り若いスタッフが入ってきたんです。彼女は絵を勉強している身で、アウトサイダーっぽい絵を描いていたから、先生に言われたことがどんなに自分に影響するかとか、先生のアドバイスを聞いて描いた絵は結局最後に全然思い入れを持てなかったとか、最終的に平気で自分の作品を廃棄できることがとても悲しかったとか、そういう話をしてくれたんです。
オーパのスタッフになっても給料なんか出るわけがないのに、大学卒業してもずっとバイトしながら8年間。現在は結婚して子育て中ですが、いまでもニュースレターのデザインなどを手伝ってくれています。
だけど、その3人でやっていたことで、たとえば「しょうがい者」とか「アート」というキーワードがもっと広がって考えられたというのはあるよね?
スズキ:そうだね。なにかひとつのことに対しても、三人三様の考え方がある。それについて話し合うのはけっこう大変で、今でもそうなんだけど。
蔭山:彼女が入ってきたときは、これで食べて行けるようにしなきゃいけない、それで作業所にしよう、と3人で考えたこともあって、サンフランシスコのしょうがい者アートセンターに行ってみたりしたんだけど、アートセンターと言ってもしょうがい者と付く限りは結局は福祉施設なんですよ。そういうのを見てたら、やっぱりつまんないなあと。
---- 作業所ではない道を選ぶということですね
蔭山:彼女が来たことで私たちも責任を感じて、100万円単位の助成金も申請したんですね。そうするとただ忙しいだけで、その100万円のために、やりたくないこともやらなきゃいけなくなった。結局なにがやりたかったんだろう? というのがすごく出てきて。だから最初からシステム外でやることの意義に気づいていたのではなくて、やりながら、常に迷いながら、最後には「やっぱり隙間だよね」みたいな(笑)。

拠点をつくる

---- はじめにしょうがいを持った人たちと一緒に、というところからしだいに変わっていかれますね。拠点ができ、街に出て行くというか、そのあたりは今に至るまでどういう流れなんですか?
蔭山:最初、スズキが東京から越してくるというので、たまたま3Kの一軒屋を見つけて、スズキの住居内の6畳間を1部屋アトリエにしたんです。でも90年代はまだ新築信仰みたいなのがあって、関係者が訪ねて来ても、「ただの民家じゃん」って(笑)。昭和30年代のトタン張りの家なので、今だったら「住み開き」とかあるし、違うんでしょうが、その当時は、みなさんがっかりして帰っていかれる。
その後、98年、神奈川国体のときにしょうがい者のスポーツ部門に対して文化部門もあり、しょうがい者とアートという活動をしている団体がどこにもなかったので、うちが県の方と市の方と両方関わってやったりしていたんです。そのときに、描く機会から作れればということで、横浜市ボランティアセンター内にアトリエを開いて、その後もニーズがあったので、そのアトリエを継続しました。当初の管理職の人がすごく理解のある人だったんだけど、その後だんだんやりにくくなって。
それからそこでは1000円の利用料をもらって場を維持していたんだけれど、支援者はスペースが無料なのを知っているので、どうしてもそれを講師料として考えてしまう。でもわたしたちは、「見たこともない表現に出会いたい」「この人がどんな絵を描くのか見たい」がためにアトリエを運営しているので、なにも教えない。しょうがい者とその兄弟といったアトリエを利用する人と活動をするのは楽しいけれど、その人たちを連れてきて、お金を払ってくれる支援者とはどんなふうに付き合ったらいいのか悩んでいました。そんなときに、突然1か月以内にどうしても独自の場所を借りなければならなくなる事情が別にできて、2001年の正月に今の場所を開設したんです。

13坪のアートセンター

蔭山:始めてみたら、家賃が発生することでオーパの会員のなかでちょっと一体感が出た。運営を支援するために、支援金としてアトリエ料を払うということで、今までよりも500円高くなっても気持ちとしては共有できたというか。
常設の場になったことで、カフェやギャラリーとか、ほかのメニューも増やせた。ギャラリーといってもただの壁、ライブラリーはただの本棚、カフェとアトリエは同じテーブルで、上になにを置くかによって名前を変えているだけなんだけど(笑)。そうするともともとアトリエも絵なんか描かなくてもいいと思っていたわけで、その中で、お母さんもカフェを利用をしておしゃべりすることもできるようになった。公共の福祉施設からはなれたことで、利用する人がしょうがい者や子どもと限らなくなったこともあって、だれかが場を利用するその時間そのものがアートプロジェクトのひとつになったんです。
スズキ:例えば母親は子どもに「こういう絵を描いてほしい」と言ったりするんですね。だからそれまではお母さんは別のところにいてもらって、と考えていたんだけど、その場をシェアしてお母さんと話すと、お母さんもみんな面白いなあ、というのを発見したんです。あの場を作ったことですごく広がった。
蔭山:そこで起こっていることがアートだと思うと、今まで「口うるさい」と思っていたことも、こんな面白い発想でこういうことを言っていたのかとか、すごく興味をもって聞けるようになった。こっちが本気で面白いと思うと、向こうも乗ってきてくれてね。
スズキ:お母さん方が言っていることは変わらないんだけどね。「これ、なんで色つけないの?」とか言っているんだけど(笑)、それもその人の文化なんだなって思えてくる。
蔭山:それから、そのころにはエイブル・アートの活動がかなり知られてきていたんですが、当時考えていたのは「しょうがい者の絵を美術館に」とか言うけれど、ほとんどの人が美術館に行ったことがないんです。日常的に行っている人なんてもちろんいないし、しょうがい者は無料だけど、いざ行くと「こうしちゃいけない、ああしちゃいけない」と言われる。チャリティーコンサートですら「別部屋を用意します」とまったく別扱いされたりする。それじゃあ、美術館に一緒に行くことからまず始めよう、ということになった。拠点を設けたことで、拠点から出てみようというのがすごく出てきたんですね。

ovaへんかわ.jpgのサムネール画像
photoART LAB OVA
13坪のアートセンター





横浜トリエンナーレ2005

---- ART LAB OVAのWebサイトに次のようにありました。
「2005年からは、こどもの居場所づくり事業や、EUとの交流事業に参加。横浜トリエンナーレ2005では、自主的に会場内のバリアフリーマップを作成し、自閉症の兄と会社員の弟とともに展覧会を鑑賞する「金島兄弟ツアー」を開催。そのほかフランスのアートジャグラーと地元のこどもたちと共にパフォーマンスを披露したり、ポッドキャスティングラジオのレポーターとして参加アーティストにインタビューをするなど、まちを舞台にアートを通じて、ひと+もの+ことに関わっています」
この年はいろいろあったんですね。
蔭山:まずEUの交流事業でヨーロッパに視察に行って、その関連事業でフランスからアート・ジャグラーを招聘したんです。間に入ったNPOの人は、アーティストに気をつかって、ここでアーティストに休憩取らせてくださいとか、いろいろ言っていたのだけれど、そのジャグラーは、どこでもどんどんジャグリングを始めちゃうし、全然予定に入ってなかったことを1日中やっている(笑)。それがたまたま横浜トリエンナーレの会場内だと、みんなパフォーマンスだと思って安心して見ている。でもよく考えると、上半身裸の男が玉を頭に乗っけているだけという状況で、そういう光景がおもしろいなあ、と思いましたね。
一方で、そのときのトリエンナーレは隙間だらけで、とてもおもしろかったんだけど、バリアフリーということではめちゃくちゃ危険だったじゃないですか。
---- 埠頭から海に落ちそうとか。
蔭山:オーパの会員にも声かけたいけれど、たとえば子どもが海に落っこちたらジョークにならないし、2度とトリエンナーレが開けなくなったら困ると思って、それで岩井成昭さんに相談したんです。そうしたら岩井さんが芹沢高志さんや川俣正さん、いろんな人につないでくれて、私たちは、自閉症の団体の人や脳性まひの人に実際会場に来てもらって、ボランティアにアドバイスしてもらったり。最終的に岩井さんと一緒にバリアフリーマップを作ってそれをトリエンナーレ会場の受付で配布してもらうところまでやりました。
---- 岩井さんとは前から知り合いなんですか。
蔭山:岩井さんも同世代で、武蔵美の音系サークルの近くにいた人だったの。あとで話していたら、お互い、あ、そうだ、あのときのあの人か、みたいなことで、岩井さんが横浜で作品を発表するときにはお母さん方を紹介したり。
---- 「ミリオン・ママ」ですね。
蔭山:そうそう、これにうちの会員さんもだいぶ協力してくれましたよ。そういうふうに助け合っていたので、自然に私も岩井さんに相談できた。
---- 隙間は大事ですね。
蔭山:大事ですよ。その隙間にこそ、いざというときになにか言ったときに聞いてくれる人がいたんですね。私たちはただなんとなく、このおもしろいトリエンナーレ会場だからこそ、こどもがいたり、高齢者がいたり、しょうがいのある人がいたり、いろんな人がふつうにいる風景があったらいいなと思っていた。「観客がアート関係者だけ」では、このトリエンナーレは不完全だと。それで岩井さんやしょうがい者の人に声をかけてみたら、それぞれに全然目的は違うんだけど、動いてくれる人がいる。わたしたちの活動は、「ノーミッションのミッション」というか、目的とか、何かしたいというのはそれぞれが別でいい、その過程をシェアできたらいいな、と思っているんです。目的を一緒にしてしまうと突然窮屈になるというか、「ミッションに合ってないんじゃないか」みたいな話になる。
その後、その横浜トリエンナーレで、横浜のアート・ボランティアの姿が顕在化して、オーバにもつながりができた。そのボランティアたちが、ZAIM サポーターズ・スクールとして、市内の文化的なプロジェクトの話を聞く勉強会を開催していて、その中にジャック&ベティの前身の黄金町プロジェクトも来ていた。だから、「横浜下町パラダイスまつり」の会場になるジャック&ベティの運営者とは、ジャック&ベティになる以前からの知り合いなんです。















photo:福田依子

Le Pied sur la Tete

http://www.lepiedsurlatete.tk/




「本人アンケート」展

---- それでは2005年の横トリ以降、関係者のネットワークができ、それからしょうがいのある人たちとのアートを主軸におきながら、別のこともはじめたということなんですか?
スズキ:意識としては主軸というようには考えてないですね。
蔭山:アウトサイダーアートということばは、全然違う文脈持っているから、それを使ってこなかったんだけど、もしも、アウトサイダーアートということばが使えたら、しょうがい者って言わなかったかもしれない。
スズキ:そうだね。
蔭山:オーパは、「卵」という意味もあるんだけど、「outsiders' various arts=アウトサイダーたちの様々な表現」ということでもあるのね。ここでいうアウトサイダーは昔から、「芸術業界外の」という意味だったし、とくに今はしょうがい者にこだわっているということは全然ありません。
神奈川国体関連で、本格的にしょうがい者とアート関連の活動をしていた98年ころ、今もそうですが、当時はもっと、オーパなんて理解されてないわけですよ。だって、アトリエといっても絵画教室でもない。場と画材があるだけで、なにも教えてもくれない。理解できないけれど、他に行くところがないから母親たちは子どもを連れてくる。でも、本当は「オーパだから行きたい」という人に来てほしい、情報がないなら情報を作ろうというので、「かながわ障害者アートネットワーク」というのを組織して、神奈川県内のしょうがい者の芸術活動の小冊子をつくったんですね。それをつくるにあたって、まずはしょうがい者の芸術活動の状況を知ろうということでアンケート調査をしたんです。はじめに芸術活動をしている団体に状況を聞く。いくらでやっているとか、どんなふうに経営しているか、考え方とか。その次に、しょうがい者がはじめてアートに関わるきっかけになる学校の先生たちに、そして、最後に本人に聞くと。で、本人に聞くって、本人にどう聞くんだ? 本人はだれなんだ? ということになって、じゃあ、それぞれのメンバーが「本人」だと思う人に、その人に聞きたいと思った方法で、聞きたいことを聞こう、ということになったんです。そうしたらほとんどがインスタレーションになったんだよね。
スズキ:そうだね。でもおもしろかったね。
蔭山:そんなことをやっているうちに、福祉の人や、アートが全然分からないと言っていた人も、アイデアを出すし、そういうことでシェアできたことがある。それがすごくおもしろくてね。
しょうがい者とかしょうがい者じゃないとか、アーティストとかアーティストじゃないとか、だんだんどうでもよくなってきて、でも一方でそうした活動をすればするほど、「ああ、オーバ、しょうがい者だね」とか、「あそこはアート団体じゃないよね」とか言われてね。そんなジレンマがあったときに、EUの交流事業があり、2005年のトリエンナーレがあり、私自身もポッドキャスティングのインタビュアーをやったりとか、自分がアーティストなのかボランティアなのか、アーティストにインタビューに行っているからなんなのか、どんどん立場がこう...
---- 溶解していく。
蔭山:そう。その感じを、2005年にとても感じたんです。
---- 転機になったんですね。