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コラム 2009.07.09

平嶺林太郎さんに聞く「甑島で、つくる。」

話し手╱平嶺林太郎さん

1983年鹿児島県薩摩郡里村(現・薩摩川内市)に生まれる。東京造形大学大学院修了。2004年より続く「『甑島で、つくる。』 KOSHIKI ART EXHIBITION」を主催するKOSHIKI ART PROJECT代表。

2008年、「Mix Up!!」「全員展!!!!!!!!」「食と現代美術 part4」に参加。20094月には「101 TOKYO Contemporary Art Fair 2009」に参加。同年、「『甑島で、つくる。』 KOSIKI ART EXHIBITION2009」がアサヒ・アート・フェスティバル2009に参加。同年自治体総合フェア2009「第1回活力協働まちづくり推進団体表彰」にて「『甑島で、つくる。』 KOSHIKI ART EXHIBITION」がグランプリ受賞。


聞き手╱AAF事務局


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島での暮らし


----平嶺さんは、甑島出身ですね。島ではどんな暮らしをされていましたか。

平嶺:中学までは島で育ちました。甑島には高校がないので、甑では中学を卒業すると、「島立ち」と言って、親元を離れて本土に渡って寮や下宿に入って生活しなければいけないんです。ですからそれまでの、特に小学校の頃の島の営みのようなものが、僕の中ではとても心地いいものでした。

例えば、夏休みはちょうど亀の産卵期なのですが、甑島の海岸線は砂ではなくて玉石なので、産卵で陸に上がった亀が死んでしまうことも多いんです。 それを救助しようということで、朝5時に起きて何時間も海岸線を歩いたり(笑)。それから小学4年生の頃、 たまたま鶏の鶏冠(とさか)がたくさんのっている本をみて、そこに薔薇冠(ばらかんむり)という鶏冠があったんです。 鶏冠が4連くらいになっていて、神々しいくらいに美しくて感動してしまったんですね。そこでチャボや中国の烏骨鶏をかけあわせて形のいい鶏冠(とさか)をつくるということを夢中でやっていました。そしてその鶏冠をもった鶏が中学2年のときにできて、一日中、鶏の絵を描いたり、写真をとったりしていました。自分ではそれがふつうだったんですけれど、回りからみると特殊なことをやっていたように見られていたかもしれません(笑)。

考えてみれば常に生きものがそばにいる暮らしで、後はおじいちゃんの畑の手伝いをしたりしていました。


進路を決める


----絵を描かれることはその頃からお好きだったんですね。いつ頃から美術の世界に行こうと考えられたんですか。

平嶺 もともとなにかを作ったり絵を描いたりすることが好きだったのですが、 小学5年生の時に、自転車に乗っていて絵画教室で油絵を描いている様子を偶然見かけました。分厚い紙にどっさり色をのせられるあの絵の具はいったいなんなんだ! と驚いて、油絵の具を買ってくれるように父親に頼みました。それから夢中になって油絵をはじめたんです。

父は建設業をやっていまして、本来は長男のぼくが跡を継がなければならないんですが、父親が苦労して整備した道や手入れした山が、台風や大波であっけなくこわれるのを見てすごくショックをうけたこともあったりして、子ども心に家業を継がずに自分でなにかやりたいな、とぼんやり考えていました。それで中学2年のときに「美術の道にすすみます」ということで父親に話しました。

ちょうどその頃、先ほどお話しした薔薇冠という鶏冠ができて、これを油絵で描いていたんです。たまたまうまく描けた1枚があって、父親は自分は芸術はわからないから、その絵を知り合いの住職に見てもらって「この子は芸術の道に進ませてあげなさい」という話になったら許そう、ということだったんです。それで、そのお寺さんに持っていったら、住職がいいといってくれたんですね。その鶏の絵はまだそのお寺にあります(笑)。 


プロジェクト開催宣言!


----「甑島でアートプロジェクトを」と構想されたのはいつ頃ですか。

平嶺:先ほどお話ししたように、島での暮らしが僕にとってはとても気持ちがよくて、コミュニティということでも、たとえば何軒かが共同でお茶を栽培していて、茶摘みの頃は誰かの家の部屋中に茶の葉をばらまいて、みんなで選別しながら話をしたりとか、そういう暮らしがありました。小学校のころは、「この島で暮らしていけば楽しいことがいっぱい待っている!」と漠然と思っていたんですけれど、中学1年、 967年の頃から、島のJAがつぶれたり、田んぼがなくなっていったり、徐々にいろんなところで「あれ?」という感じに変わっていきました。島に流れる緩やかな時間のようなものが急速に変化したというか、島の人たちも一生懸命乗り遅れまいと都会と同じように資本主義のシステムに載っかっていくようで、島の時間や文化が消えていくように感じていました。

大学に入って夏休みに島に帰ると、畑もますます荒れているし、神社のしめ縄が切れて垂れ下がっていたり、空き家が増えていたり、いろいろなことが忘れ去られていく状況をみて、自分がイメージしていた甑島をとりもどすために、なにかできないかと思ってモヤモヤしていたんです。

そんな頃、甑島でも2003年頃から市町村の合併問題がおきて、母校である小学校や中学校が統合されるといった話を島の議員さんから聞いたりしていました。そのとき思ったのは、東京での廃校を使った展覧会や、越後妻有アートトリエンナーレを見に行ったときの感触があったので、自分も美大に通っていてなにかできるんじゃないか、ビッグなアーティストは呼べないけれど、ぼくたちの世代のやり方でなにかできるんじゃないかと考え始めました。当時19歳で、お会いしたことはなかったんですが、東京造形大の先輩で「スタジオ解放区」の林僚児さんの活動も聞いていたので、林さんの知り合いの宍戸遊美さんにいろいろアドバイスをもらったりしていました。

そして2003年の正月に、島の成人式で壇上に立って「こういうプロジェクトをやる」と言ったんです。島の人たちの反応は「なんじゃそら」みたいな(笑)。聞かされた人にとっては、アート・プロジェクトということ自体がどういうものなのかわからないですし、つまらない挨拶だったと思うんですけれど。


これまでのKOSHIKI ART PROJECT


----その後の展開について教えてください。

平嶺:最初は家族からの反対を受けたりしたのですが、大学3年の夏、 1回目の展覧会を2004年にやって、 それから2005678年と続けてきました。これは1回目のときから考えていたことですが、3年目の2006年は、ワークショップや作家の制作活動は行ったのですが展覧会はやりませんでした。マンネリ化するのもいやだったし、展覧会をしなかったら島はどういう反応なんだろう、ぼくたちは本当に必要とされているのか、ということを知りたいと思っていました。

そうしたら「なんでやらなかったんだ」という声や、 たまたまだとは思うんですけれど、民宿やホテルのお客さんが減った、と聞いて「じゃあやろう!」ということで(笑)、そこからまた続けてきたんです。

そこまでの経験ではアーティストは毎年15人くらいがちょうどいいね、という話をスタッフとしていたんですけれど、翌年の2007年にはこれも実験として無理してアーティストを45人くらい呼んだりしました。展覧会としては量で見せるようなかたちになって質が落ちてしまい、現実的な問題として運営する側がものすごく疲れました。

一方で人数が多い分だけ、アーティストが温泉の掃除をしたり、稲刈りを手伝ったり、 そういう意味ではとても評判がよかった年でした(笑)。というのも、ぼくが小学校とか中学校の頃には、夏になると高校生が島に帰ってきていたんです。そして家族の手伝いとか、商店の手伝いをしていたんですけれど、だんだん高校生が夏に帰ってこなくなって、 そうした人出の足りないところにアーティストが入っていったんですね。ほんとうにふつうに、ホテルのシーツ替え、キャンプ場の管理人、プールの監視人になったりして(笑)。それはそれでいいんじゃないかなとも思うんですけれど、やっぱり作り手なので、集中したかったといった反省点もありました。


P8284229.JPG「一筆描きのホシ」相川啓太


作家を選ぶ


----作家は、平嶺さんが選ばれているんですか。作家の方は交通費をほとんど自分で払ってやってくると聞きました。よく、集まってこられますね。

平嶺:作家ははっきり選んでいます。勘でしかないのかもしれませんが、これは面白いかなと思う作家には、「卒業したらどうするの?」といった質問をしたりします。そのときに「そんなの作家を続けるに決まっているじゃないですか」という学生と「家が厳しいので就職しようと思っています」というのと、単純にその違いであったりします。

例えば今年来てくれることになった遠藤一郎さんですけれど、ぼくは本当は遠藤さんのようなパフォーマンスはすごく苦手なんです(笑)。すごく苦手なんですけれど、一郎さんに会ってパフォーマンスのビデオを見せてもらったときに、これは島で子どもたちに見せてあげたいなと思って、即決でしたね。一郎さんは「未来」という言葉とか、メッセージがストレートじゃないですか、そういうのが案外気持ちよかったりして、島の人たちもたぶん腹をかかえて笑うと思うんです。でもすごく真剣な感じが伝わってくるんですよ。

基本的に、子どもたちに見せたい、お年寄りに体感してほしいとか、そういう島目線と、自分の作家としての視点、「この人たちとつきあっていくかどうか」ということ、作家にとっても甑島のあとの活動につながるのではないか、ということで決めています。

でも、甑島まで来てくれる熱心な作家たちは、東京にもどっても積極的に活動するわけですよね。だがら結果としてその後東京でも活躍されている方が多くて、そういうことでKOSHIKI ART PROJECTの名前が広がっているという感じがします。


----平嶺さんが考えている島の問題や将来の構想については、誘われるときに作家に話されるんですか。

平嶺:最初の頃はひどいもので、「南の島で合宿プロジェクトをしませんか」といった誘い方です(笑)。実際に展覧会ができるのか、作家が制作できる環境をきちんと整えられるのか、他にもいろんな不安があったので、あまり言えなかったんです。島のことを考えるということ自体、傲慢というか、「お前、アーティストなんだから自分の個性を考えていればいいんだよ」みたいなことを言われるんじゃないかと思っていました。

でも、島に行けば直接体感できることもあるんですね。展覧会までやるということは、そこの土地の人たちのことも考えざるを得なくなるので、島の歴史や現在のことを、作家それぞれが受け止めてくれたように思っています。

いまはもう堂々と「『七人の侍』みたいなことをやるから手伝ってくれ」と作家に言ったりしていますけれど(笑)。


10年後の夢


----KOSHIKI ART PROJECTはこの後もずっと続けていかれるのですか?

平嶺:展覧会はたぶんずっとやっていきます。一番楽しみにしているのは、ワークショップに参加したり展覧会を見たこどもたちが、10年くらいたって、今のぼくと同じくらいの年齢になって島でなにをするのか、ということなんです。実際に美術の方向に行った子たちもいますけれど、別にアートでなくても、食でも文学でもなんでもいいから、ぼくらが美術や芸術の分野でやったことを、若い子が甑島でやろうとしたら面白いのかな、と。

アーティストになった子がいれば、その子がキュレーションした展覧会をやってもいいと思います。ぼくが選ぶとフレッシュな感じではなくなるような気がしますから、アートであれば若い人と一緒にセッションしたり、どういう企画展をやろうかとか話し合っていけたら楽しいですね。


家族の支え


----ご家族のことをお聞きします。最初は反対されていたということですが。

平嶺:兄弟は3人で、1つ上の姉と、3つ下の弟がいます。美術にいくという道をずっと応援してくれてきたのは姉の純子で、ぼくが出て行くことで欠けてしまったところを埋めてくれているのが弟なんです。弟が会社を継いでくれるということで、ぼくもこっちの世界にこられたということがあって。 

ぼくは車の免許を持っていないので、プロジェクトの1回目の時から手伝ってくれて、素材を調達することとか、協力的だったのはこの兄弟ですね。それがあったのでしかたがなく親も手伝う、じいちゃんばあちゃんも孫だから手伝うというような図式で(笑)。

今は姉が正式なプロジェクトのメンバーとなって、広報や、音楽祭の企画を立てたりしています。いとこの山下賢太も京都造形芸術大学に進んで景観デザインの面から甑島でプロジェクトを企画していて、弟はそうした流れに、若干、焼き餅をやいているような感じです(笑)。「ぼくは美術のこともわからないし、積極的な動きはできないから、そっとしておいてくれ」というような。でも彼がこの12年くらいでたぶんメンバーに入ってくるんですけれど、というか引き込もうと思っているんですけれど、弟が重機や10トンダンプを使えるということになってくれば、即戦力というか、東京のアトリエではできないことができるじゃないですか、しかも低コストで(笑)。

それこそ島の仕事もいまはあまりないものですから、父の会社自体もアートプロジェクトの会社に方向転換するくらいになればいいと思いますね(笑)。ぼく自身も、島で農業もやりながらでいいから、ものをつくる仕事をできるといいなと思っているんですけれど。

それから、今年はうちの祖父が作家でデビューします(笑)。祖父もずっとものをつくることが好きで、自分で刈った稲の藁を使って牛をつくったり、けっこうセンスはあるんです。祖父に限らず、島に在住している人のアートになりうるものを展覧会で発表してもらったり、もの作りでなくても、たとえば庭をいじるのがとても好きなおじいさんがいたら、その人の庭を展覧会会場のひとつにさせてもらうとか、そういうことも考えていて、そうすると島の人たちも展覧会に参加できるし、もっと本音が聞けるんじゃないかと思うんです。ぼくは島出身だから直接言ってもらえるけれど、アーティストは「こんなことやって意味あるの?」と言ってくれる人がいると、「えっ、自分はこれでいいのかな」と考え込むと思うんですよね。そういうことが結構重要だったりするんじゃないかなと思います。


作家として、企画者として


----平嶺さんの中では作家としての活動と、プロジェクトを動かしていくことは、どういうバランスになっているんですか。

平嶺:対立するものではないですね。ひとつのものというか、ぼくの生活というか。この1年くらいで気づいたのですが、自分はきっと美術の業界の人間ではないんです。生き物と触れあったり、そういうことが本当は楽しい。それで選ぶ職業はあったんでしょうけれど、その前に美術に出会ってしまったのかと思います。でも現代美術では、絵や彫刻だけが作品ではなくて、ことばやパフォーマンスなど、いろんなジャンルがあるじゃないですか。だから、人と人を会わせたり、アーティストに島を体感してもらうことによって、あらたな価値をつくりだしてもらうとか、言葉は悪いかもしれませんがアーティストと島をかけあわせる、そして薔薇冠をつくるというような(笑)。

もっとも自分の中で対立しないでいられるというのは、姉の平嶺純子や山下賢太がいることが大きいです。1回目の展覧会のときは航空会社のやりとりや空き家の借り受けの交渉など事務的な作業をひとりでやったんですけれど、そのときにすごく疲れて、これは山下か姉をいれなきゃいけない(笑)、スタッフが必要だなって思ったんです。ですから今は悩まずにいられてすごく助かっています。

逆に作家を選ぶことや、この作家のこの作品なら島のこの場所がいいんじゃないか、この作家だったら島でこういうことを感じるんじゃないだろうか、そうしたイメージトレーニングが、自身の制作にあたっていい方向で働いているような気がします。

ふつうにアーティストがやろうとしたら、たぶん背負えないと思います。2004年にはじめたときに、「おまえ、アーティストやめちゃうの?」とよく聞かれたんですけれど、今ではぼくのなかではプランができているから矛盾しないんです。

とにかくぼくは島のことを考えると興奮するんですよ。いまはこんな話し方をしていますけれど、島に行ったら違いますからね(笑)。今の自分もほんとうだと思っているけれど、島では大声だして子どものように激しく動き回るとか、それこそ遠藤一郎さんみたいなことをして、島の人がわっとなるのが好きなんです。去年のお祭りには髪の毛をモヒカンにしたり、東京にいるときとは全然違います。だからそういうことを東京でもできている遠藤さんはうらやましいです(笑)。


失われたものを取り戻すために


----AAFのプログラムでも、もともと住んでいた人が一から立ち上げるプロジェクトは意外と少ないんです。平嶺さんの、ご自身の記憶に近づけようとしていくかのような発想のしかたが面白いと思います。島は平嶺さんにとっての「王国」というか、そこへ行けば実際にエネルギーを得られる場所であり、一方で、その場所が刻々と崩壊していくのも見ているわけですね。もちろんできることはされていても、変わっていくものを押しとどめることはできない、それも厳然たる事実だと思います。AAF2009の選考時の公開ヒアリングのときに、「島に帰って暮らしたいと思われますか」という質問がありましたね。

平嶺AAFの公開ヒアリングでは、山下賢太と姉との3人とも、すごく楽しんでいました。島では応援してくれる人もたくさんいますけれど、まだまだ理解してもらえないところがあります。 公開ヒアリングの場で、「えっこんなにわかってくれる人がいっぱいいるんだ」と感じたときに、それこそAAFに参加してよかったんだ、というか、自信にはなりました。

そのときも即答したと思うんですけれども、島には迷わず帰りたいんですよね(笑)。でも、帰っても仕事がない現状がやっぱりつらいというか。だから島の外からまず環境をつくっていって、そして島の人たちにも理解してもらって、暮らせる場をつくっていけるといいなと思います。

「王国」ということで言えば、ぼくはすごくいいタイミングだったなと思っているんです。楽しい場所であり、それが変わっていくところも見られたわけです。しかも行動に移せるような年齢にもなっていました。でも甑島で起きていることは、全国でまた違った形でも同時に起きていて、それをなんとかしたいという動きも全国的にあるわけですね。アートという場で、そういうことを考えて活動されている人たちにはとても励まされます。

甑島に住んでいる人たちはもっといろんなことを感じているだろうし、悩んでもいると思うんですけれど、外側からでも感じられる、帰ったときだけでも感じられるのはすごくよかったな、と思いますね。今の子どもたちはもう気づけないかもしれないじゃないですか。すでに失われていたか、そうでなくても最初から島を出て行くことが前提になっている。島ではもう生活できないから本土の方で暮らしていくんだよ、という教育がなされているかもしれません。実際、かつては子どもたちが島を出て高校へ通うときには、1人で旅立ったんです。最初に言ったようにそれを「島立ち」と言っていました。でも最近は親もついていって鹿児島のマンションで生活したり、家族で島を離れる人も多い。でもぼくは「島立ち」の教育を受けてきたからこそ、戻ってこようと思っていたんですよね。親も自営業やっているので、戻ってくるように教育していたと思うんですけれど。


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いま、なにかが動き出している


----最後にお聞きしたいのですが、平嶺さんにとって、KOSHIKI ART PROJECTにおける到達点というのはどういうイメージですか。

平嶺:単純に、島の人たちの「今年はよかった!」という一言だったり、ぼくらの活動をひとつのきっかけとして、島の人たちが行動し始めるということでしょうか。

ぼくらのプロジェクトと直接関係があるかどうかはわからないんですけれど、地元にはぼくらが小さいころから食べていた「きびなご丼」というのがあります。これを島外からくるお客さんに食べてもらおうということで甑島の飲食店に広めようという動きが今、島であるんです。

それから、今度のAAFのオープニングパーティーには、漁師さんたちが、その名産のきびなごを持って来てくれるんですよ! そうしたことがぼくらには、成功しているという実感ですね。

行政も、プロジェクトの最初の頃はまだ村だったのですが、課長さんや、村長さんに 340万円という見積を出して、「このくらいのお金がかかるんですけれど、ください」と言ったんです(笑)。もちろんダメなんですけれど、それが少しずつ変わって、甑島で文化的な活動をおこなう学生を支援するということで1団体5万円、上限20万円なんですが、「こしきアイランドキャンパス」という助成制度を市がつくってくれたんです。

今度の自治体総合フェアでも、薩摩川内市から「私たちが推薦できるのはKOSHIKI ART PROJECTじゃないか」ということで連絡をいただいて、「ぼくたちでいいのなら、よろしくお願いします」ということで、応募したんです。そうしたら地域に密接に関わって街づくりをしているということで、優秀プロジェクトに選ばれて表彰されることになって(事務局注: 7月8日に優秀プロジェクト5点のうちからグランプリ受賞が決定)。島のことを多くの人に話せる機会なのでうれしいと思っているんですが、そういうことも今まではなかなかできなかったんです。

鹿児島でも姉の知り合いの人たちが核になって「KOSHIKI応援隊」というのを作ってくださって、さまざまな形で応援してくれています。

それから島に戻れなくなった人たちが日本中にたくさんいます。その人たちは、島に住んでいないのだから意見を述べたりしてはいけないという遠慮があったと思うのですけれど、ぼくみたいなバカなヤツがいるから(笑)、ほかの土地にいても島のことを思っているのだったら、応援したり、島でなにか活動してもいいんだ、という動きがあって、若い人たちが応援隊の中に入ってくれてPRをしてくれたりしています。

いま、島が立ち直っていく瞬間をリアルタイムでみている。実際ぼくはそれをすごく感じています。ここ12年でしょうか、自治体総合フェアのことや、鹿児島のメディアでぼくらのことが紹介されることで、島の人たちが元気になるんですよね。正直なところ、ぼくらがこれからも続けていかれるかどうか、不安はあるんだけれど、島の人たちがやる気になっている様子をみると、やっぱりやろう、と元気をもらえるんです。

姉はいま鹿児島に住んでいますが、この6月からアートプロジェクトに専念します。「あなたはPRがうまいので、協賛金をもらって自分で生活しつつ、やってください」と姉に言ったらその気になってくれて、パン屋さんのアルバイトをやめました(笑)。来年あたりからは、島の空き家を借りてそこに姉が住んで、アートセンターとしてアーティストのレジデンスも年間を通してやれないか、相談しています。

いま、いろいろなことがすこしずつ繋がって、ぼくらの活動もまわりはじめて、アートプロジェクトもいままで拠点にしていた集落から広がって、そんなふうにどんどん動いていて、いったい今年はどうなるんだろう、とワクワクしているんです。

2009611日採録、東京都新宿区左門町P3オフィスにて)