コラム各地からの「もの」便り
vol.17
『松明 〜はかなき「もの」ゆえのエターニティ〜』
東大寺二月堂の「お松明」をはじめ、全国各地、否、世界中の祭礼のなかにいきづく松明(たいまつ = torch)文化。火出づる国(出雲・八雲)に生まれ育った私にとって、松明の炎はことさら魂を揺さぶる「もの」なのかもしれない。
私がたまたま住み着いたここ、滋賀県近江八幡市には、国選択無形民俗文化財にもなっている「近江八幡の火祭り」があり、全国にも類を見ない特異な松明文化を有している。
4月から5月にかけて、近江八幡市周辺のほとんど全ての神社の境内に、実に個性豊かなフォルムの「松明」が氏子たちの手によって毎年形づくられ、夜な夜な捧火される。その様は、まるで神々が天空より舞い降り、地域住民の手を借りて乱舞するエネルギースポットのようである。
松明の製法は、各々の集落の秘伝であり、ほとんどの場合、作り方や完成した姿を描き記された文書は存在しない。年にたった一度だけ、作ってはすぐ燃やし、一抹の灰と化してしまう実にはかない存在でありながら、世代から世代へ、地域住民の手によって、実に1700年以上もの永きにわたって連綿と存在し続けてきた「もの」なのである。

ルールや記録がないからこそ、世代から世代へ伝わるうちに、その姿や製法は集落ごとに少しずつ変容し、各々の個性が生まれ、それがまた地域の誇りとなってさらに誇張されていく。もとは應神天皇の行幸をお迎えするために松明をつくって灯したのがこの祭の由来と伝えられるが、松明祭はいつしか農村の副産物であるワラ・ヨシ・竹・菜種殻を主材とする五穀豊穣の祈りの対象として、あるいは仏教で御仏に祈りを捧げるろうそくの巨大な蜀台として、その意味すら変えられてきた。
まるで、多様な生物界の進化の過程を見ているようである。その意味で、近江八幡の松明は単なる「もの」を超えた「生命体」とも言えるかもしれない。
さて、そのように時代とともに変容してきた松明の突然変異体のひとつとして、いつの時代かは分からないが、島町固有の「ほんがら松明」が誕生した。ろうそくの蜀台のような格好をした松明のなかに煙突状の穴が空いており、下から入れた火が煙突の中をかけのぼって蜀台のてっぺんにポッと炎が灯る、という実に巧妙なシカケ。このような松明は近江八幡広しと言えど島町にしか存在しない。否、存在しなかった。

作るのに手間のかかる「ほんがら松明」は、全国の多くの伝統文化と同様、高度成長というライフスタイルの変化の波とともに途絶えた。しかし、ほんがら松明を作っていた時代の記憶を持つ数人の老人たちの手によって、今年4月、絶滅寸前だった「ほんがら松明」は約50年ぶりに復活を果たした。その様子を見守っていた老人たちの気持ちは、先日巣立ちした豊岡のコウノトリの姿を見守っていた人たちのそれと同じであったに違いない。
「ほんがら松明」は、製法が複雑で、実に手間がかかる。おまけに、筋書き通り下から火を入れててっぺんにポッと火を灯すのはやたら難しい。50年前の現役時代ですら、6本中せいぜい1,2本しか成功しなかったという。
先人は、なぜこんなにも非効率な松明を編み出し、作り続けていたのか、ずっと不思議だった。しかし、今回のほんがら松明復活の瞬間を目の当たりにして、その謎の答えがはっきりと見えた。
たいへんだからこそ、難しいからこそ、皆で協力し、心をひとつにしないと達成できない。そして、心をひとつにして松明捧火に成功した瞬間は、何ものにも代え難い喜びであったに違いない。

個人主義の現代と違って、ひと昔前の農村集落では、共同体の維持こそが生きる術であった。その時代には、こうやって年に一度、地域のみんなが心をひとつにできる祭や松明の存在が欠かせなかったのだ。
地域の人々が松明をつくり、松明が地域をつなぐ。これこそ、「祭」の原点ではなかろうか。
さる7月1日、地域のキーパーソンを集めて「地域を継ぐ、地域が繋ぐ“まつり”と“アート”」と題した車座座談会を開催した。そのなかで、アーティストの立場から「松明はもっと柔軟にアレンジ・工夫する自由さがあってもいいのではないか」という意見が出され、一方、祭の担い手である地元住民からは「先人が築いてきた松明文化の意味を紐解いてみたい」という意見が出された。どちらも非常に示唆にとんだ重要な主張だと思った。
今、私たちは、「ドキュメンタリー映画」というツールを島町の現場に持ち込み、カメラを通じて「ほんがら松明」という生命体と、そのDNAたる地域住民の心の奥底を追いかけながら、島町の「まつり」と「共同体」の再生を試みている。私たちが島町にカメラを持ち込んでから、かつてのほんがら松明を知る老人がすでに2人他界した。状況は待ったなしである。

映画が完成するのは年末近くになると思うが、その映像を通じて、日本各地で消えゆく「もの=生命体」が、ひとつでも多く、その命の炎を再燃させてくれることを願ってやまない。
- 藤田知丈
- 1972年、島根県八雲村(現松江市)生まれ。琵琶湖をキレイにしたくて滋賀に住みつく。地域プロデューサー養成塾「おうみ未来塾」でともに学んだ仲間と、農村地域再生に取り組む任意団体「ひょうたんからKO-MA」を結成。そこでの様々な実践活動を通じて、地域再生のツールとしてアート(的要素)が不可欠であることに気付きはじめた。