コラム各地からの「もの」便り

vol.7

『お湯』

門脇篤さん(東鳴子ゆめ会議)
GOTEN GOTEN 2007 アート湯治祭宮城県東鳴子温泉

コラム写真
何がなくてもお湯があるー東鳴子とは、そんなところである。私がかの地へ初めて足を踏み入れたのは、2005年の暮れも押し迫る頃で、宮城県北部と山形県とを結ぶローカル線、JR陸羽東線の車窓から見る景色は、白いシーツを敷きつめたような一面の雪景色だった。

鳴子御殿湯駅なる駅に降り立ち、通りを行くが、いっこうに温泉街らしい場所に出くわさない。おそらくは「いとうこけし店」なのであろう「いとうこけ」なる看板に目を奪われながら(※1)、とうとうどう見ても集落はそこで途絶えているような場所まで来てしまい、やっとその何の変哲もない(というより何もない)通りが温泉街だったことに気づいたわけである。


私を迎えてくれた大沼伸治さんは、「旅館大沼」の5代目湯守。大学で観光学を修め、その後、伊香保温泉で修行されたというが、いっこうに旅館の主人らしいところがなく、かすれたような特徴のある声で冗談を連発し、しきりとむいて久しいためか茶色くなったりんごが大皿に入っているのを、手づかみで食べろと勧めてくれる。

大沼さん

ここでアートをやっている、という。それもアサヒビール芸術文化財団の助成を受けた「アサヒ・アート・フェスティバル」の参加企画として。ひとしきり世間話をしたところで、「じゃ、そろそろお風呂でも」ということになる。そこで入ったお湯。私はそれまで週末には近くの温泉で「日帰り入浴」をたしなんでおり、特段そうした温泉に不都合を感じることもなく、むしろ喜んで入っていたわけだが、この時の体験は私に、「今まで何か大切なことを知らずにきてしまったのではないか」という思いを起こさせるとともに、いろいろな意味で私の人生の転機となるものだったように思う。


それまで「温泉」と呼んでいたものが、「オンセン」と言おうか、あるいは「ONSEN」とでも言ったらいいか、何か急におもちゃのような、スポーツジムのジェットバスとか温水プールとか、そういったもの(別にそれが悪いと言っているのではないが)と思えるほど、ここ鳴子のお湯はホンカクテキだった。お湯から上がって大沼さんの顔を見ると、急に何か立派な人に見えてきた。そして今度はお話を真剣にうかがううちに、ここは観光地ではなく、またこの人も旅館の主人ではなく、ここは湯治場でこの人は湯守なのだということがわかってきた。

それからこの街にある14軒(※2)の宿のほとんどのお湯に入れてもらった。「通い湯治」と称して、月に2〜3回、車で片道2時間かけてこの地を訪ね、「アートです〜」とあいさつしてまわる。その折、湯守やおかみさんたちはみな「入っていったらいいサ」とお風呂を勧めてくれる。今は廃業してしまった、誰も話をしているのを見たことのない「談話室」と、電話のない「電話室」を持つ「明正館」のしみるような味わいの「大岩風呂」。湯治専門で、部屋に鍵すらついていない「まるみや」の、時間がたつにつれて色が変わる鉄分を豊富に含んだ重曹泉「まるみやの湯」。黒湯で知られる、もうほとんど「アート展示室」と呼んでもいいような「高友旅館」のお湯と風呂場。同じく、いぶしたような香りがくせになる「馬場温泉」の黒湯。かつては「東鳴子のカラカラ帝」と呼ばれ、その巨大なドーム状のお風呂の洗い場ですら、200人を超える湯治客のために収容不能に陥ったという「田中温泉」。バスタオルやバスマット、ドライヤーまでノーブルなピンクに統一した女性に人気の「なんぶ屋」。にぶく光る木の廊下とちゃきちゃきのおかみが印象的な「初 音旅館」の緑に囲まれたお風呂。実直なのに、どこかおかしい若旦那と、しっかりもののおかみさんが仕切る「勘七湯」。タイガース・ファンで、お風呂やのれ んはもちろん、玄関先のスリッパの上で眠る猫までトラ猫の「いさぜん旅館」。そして、さまざまなメディアで取り上げられ、今や東鳴子の顔になった感のあ る、「旅館大沼」離れにある露天「母里(もり)の湯」は、「美人の湯」と呼ばれる、にごりのないさらりとした赤湯・重曹泉(※3)などなど。

  
左:いさぜん旅館の玄関先 中:「馬場温泉」の黒湯 右:旅館大沼「母里の湯

それぞれが独自の源泉をもち、旅館ではなく、お湯に客がついたという古くからの湯治場・東鳴子温泉。農作業を終え、あるいは漁の合い間に、まとまった期間、米や何かを持ち込んで、からだを癒し、心を癒していった人たちと、それを肩肘はらずに迎え入れ、この「非日常の中の日常」を演出していった湯守たち。そのあり方は、見たことのないものを見、知らない情報を詰め込むためにあちこちを駆けずり回り、観光客と観光地とを見る者/見られる者とに、ある意味暴力的に配置してしまう「観光」とは一線を画すものであり、遠く離れた土地からやって来た人を分け隔てなく、あたかも親しい友人か親戚のように迎え入れ、やって来た人はあたかも第二の故郷へと帰って来たかのような思いにとらわれる、この場所固有の関係性、文化を育んで来た日本人の心の故郷、スローライフの原点だったのではないだろうか。そしてそれは、この地にお湯がなかったならば、決して生み出されることのなかったものなのだ。

そうした土地に生まれ、育ち、あるいは受け入れられた者として、この人たちは、この地が大切に守ってきた文化や歴史を見直し、継承し、さらに発展させていきたいと、きっと思っているに違いない(※4)。どこでどう間違って「アート」と関わることになったのかはわからないが、時代や社会状況によってその身の振り方が変わっていくのは当然のこと。それでも地中深く流れつづけ、絶え間なくこんこんと湧き出して、いつまでも私たちの身体を癒してくれるお湯のそのあり様が変わらぬように、その地の底流を流れ、終始変わらぬものを大切に見据え、その上で時代の流れや新しい人との出会いによってもたらされた、例えばアートのようなものも、同じように大切なものとして受け止めていこう——そう思ったのではないか。
ならば私もアートを、つくる人/見る人に配置し、単なる個人の内面を表現するためのものにしておくのではなく、お湯に入る人が誰かれわけへだてなく受け入れられ、癒され、満たされ、潤されていくように、この地をひとつにつなぎ、それがやがて周辺地域までをも潤していくようなものとして「アート」を考えられないだろうか、と思った。それは美しいとか美しくないとか、理解できるとかできないとかいうものであるよりも先に、それによって人と人とがなぜか結ばれてしまい、これまでになかった新しい関係を築いてしまうようなものであるべきだろう。

ここにお湯がなかったなら、決して結ばれることがなかったように、アートがなければ、結ばれなかったかもしれない関係性。現代の湯治場における挑戦も、湯治場におけるアートの挑戦もまだまだ始まったばかり。長い湯治の歴史の中では、まだほんの一瞬の出来事に過ぎないこの東鳴子での試み、お湯によって生み出された「アート」な取り組みを、ぜひ一度見に来て下さい。


東鳴子温泉街


※1 いとうこけし店の看板はその後、強風にあおられ、「け」が欠落して「いとうこ」となった後、2007年7月にリニューアルされ、現在は残念ながら名物看板は撤去されてしまっている。
※2 私が初めて訪ねた頃に14軒あった旅館は、2007年7月現在、1軒減って13軒になってしまった。農家や漁業関係者、老人クラブの湯治場離れは深刻で、東鳴子を含む旧鳴子町(現大崎市)の調べでは、同町への観光客は、1991年には401万人にのぼったが、2002年には204万人へと半減した。
※3 東鳴子温泉の旅館一覧については、以下を参照のこと。
http://www.hds-net.co.jp/higasinaruko/yado/
※4 現代に湯治文化を継承・発展させていく試みとして、「現代湯治」が提唱されている。2007年7月13日、山形県の肘折温泉で「現代湯治サミット」が開催された。




門脇篤
1969年生まれ。仙台在住。毛糸を使ったインスタレーションを制作する他、「まちとアート」をテーマに、街の人といっしょにアート・プロジェクトを立ち上げる活動を行っている。
門脇篤さん